7-9.難問・珍問自分だけ天国に行く利己主義者?3
あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに」(イザヤ48:17, 18)。
敬虔なクリスチャンであるスミスさんは、愛する家族を置き去りにして自分一人が神の国へ行くことへの後ろめたさに苦しみ続けました。
自分だけ幸せになるような利己主義者であってはならない、愛する家族のために犠牲を払うべきだろうと思いました。
パウロも「私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」(ローマ書9:3)と言っていることにスミスさんは目を留めました。
真の愛の故に信仰を棄てるべきだろうと、これこそキリスト信仰の真髄であろうと思うようになりました。
そして、信仰を棄てることの許可を得ようと思って祈りました。主は今度こそお返事を下さると思ったのです。
しかし、祈っても、泣いても、叫んでも、喚いても、シーンと静まりかえって返事はありません。
数ヶ月もこのような日々が過ぎていきました。絶望の中で心が閉ざされている父親を励ましたいと思いましたが、福音を語ることが出来なくなり、何を言えばいいのかわからなくなっていました。
祈りの中で主の語りかけを受けることを諦めたスミスさんは、聖書を開きました。創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した」に始まり、気が狂ったようにむしゃぶりつきました。
聖書の中に必ず解答があるはずであると信じていたからです。よく知っている箇所と、ざっと流して読んでしまっている箇所とさまざまですが、その同じ御言葉が、まるで津波のように大きなうねりを持ってスミスさんに迫ってきました。
これは何だ! スミスさんは眼を白黒させて文字をのぞき込みました。すると、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出エジプト20: 2)という文字が、紙面いっぱいに大きく浮き出して黒々と輝きました。
スミスさんは暗闇から一挙に抜け出しました。罪のとりこの状態から救い出して、自由を与えてくださった造り主のことを全然わかっていなかったことに思い至りました。
「十字架・十字架」と言いながら、イエス・キリストの十字架の尊い犠牲の真実を全く判っていなかったのです。
造り主の偉大さは、人間の理解の届くことではないと思い知りました。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」(ヨブ記7: 17、詩篇8: 4、ヘブル2: 6)。
全知全能の神が全世界を造り、ご自身の尊い御姿を写して人を造られたことを改めて思いました。永遠の昔から先に自然法則が存在しており、神はその自然法則に従って天地万物を創造されたかのごとく、人は「物事をさかさまに考えている」(イザヤ29: 15, 16)ことに気付いたのです。
創造主である神がすべての自然界の法則を定められ、この全法則を主ご自身が管理、統率しておられるという重大な事実を、主はスミスさんに啓示してくださいました。
実際、「律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともでき」(ヤコブ4:12)、それを行なう権限を持っておられ、そして計り知れず偉大な方であることを(詩篇29:2-4, Ⅰ歴代29:11,12, エペソ1:19)、スミスさんは肝に銘じました。
聖書を人間中心に読んでいて納得できなかった数多くの出来事を、聖なる神、正しい全知全能の創造主として尊敬の念に満たされて読み直したときに、スミスさんは迷妄から救い出されたのです。
人間の不従順はアダムに始まったことを改めて認識しました。不従順なイスラエルの民を(申命記9:7)エジプトから脱出させるために主に従い通したモーセは、たった一度主を信じず、主を聖なる方としなかったために約束の地に入れませんでした(民数記20:10-13)。
サウルは命令に従わなかったために王の地位を剥奪されました(1サムエル13:8-14)。
ダビデが神の箱を車で運んでいるとき、牛がひっくり返しそうになったので車を御していたウザが手を伸ばして神の箱を押えました。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれました(Ⅱサムエル6:2-8)。
創造主が定められた規則に従って全宇宙が存在しており、動物も人間も選択の余地もなく、その自然法則の中で命を与えられ、生かされているのです。
そして、神のかたちに造られた人間だけが与えられた素晴らしい自由意志を駆使して神の規則に従うのは、人が幸せに生きるためだと主が言われたことに(申命記5:32-33)スミスさんは感動しました。
神を愛する人々のためには主は最善をしてくださるという約束を(ローマ書8:28)、味わいなおしました。
愛故にこそ特別に与えられた律法に人は従わないことを前もってご存じであった神様は、新しい契約では律法を心に書き記し(エレミヤ31: 33、ヘブル8:10)、いかなることがあっても見放さないで守るという驚くべき恵みを約束されたのでした(申命記31:6-8、イザヤ書41:14-20)。
イエス様は同じことを、「律法を成就するために来た」(マタイ5:17, 18)、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と、地上にあって人間の声と言葉で語られたのでした。
信仰のない人と進退をともにしてはならない(箴言1:10-16、ローマ12:2, Ⅱコリント6:14)、「自分の悟りに頼るな」「どこにおいても主を認めよ」(箴言3:5-7)といましめられているのは、人間中心の歪んだ思いが湧き上がり、心の中で増殖するからであるとスミスさんははっきりとわかりました。
ペテロの気遣いをサタンの言わせるもので「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、イエス様はお叱りになりました(マタイ16:22-25)。
「主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい」とサムエルは言い、主の御声に従うこと、「砕かれた、悔いた心」が最高のいけにえであると書かれています(Ⅰサムエル12:24、15: 22、詩篇51: 17)。
自分の父母や子どもたちを主よりも愛する者はイエス様にふさわしくない(マタイ10:37-40)という御言葉が、この訓練の中で血となり肉となってスミスさんの体中を駆けめぐるようになりました。自分の十字架が何であるかをおぼろげながら噛み分け、愛する人々に創造主であるイエス様を証する使命を命がけで果たす決意を新たにしました。



