7-6.難問・珍問カインの結婚は近親相姦か?(3)

第7章 Let's Q&A.

7-6.難問・珍問カインの結婚は近親相姦か?(3)

死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(Ⅰコリント15:21-22、新共同訳)。

 1925年の歴史的に有名なスコープス裁判で、キリスト教擁護のために立ち上がったある検事は、反キリスト教の旗を掲げた弁護士からカインの妻について質問されて答えることが出来ませんでした。
これが大きく報道されて、今日でもクリスチャンは聖書の記録を擁護することができないと、世の中から見られています。
実際、聖書を非論理的な書物であると思っているクリスチャンが無視できないほど大勢いるのは、残念ながら事実のようです。
そして「信仰は論理ではない。ただイエス・キリストを信じていればいいのだ」と「信仰・信仰」と叫び、論理を語ることを不信仰と見なす傾向がないでしょうか。

 では、この問題に関して聖書は何と言っているでしょうか? パウロは「神のすべての武具を身に着けなさい」と言い、具体的には「真理、正義、福音、信仰、救い、御霊による祈り」などの武具と共に、「神のことば」という武具を挙げています(エペソ6:11-18)。
そして、「よく考えもしないで信じ」ることを否定的に書き(Ⅰコリント15: 2)、「よく考える」ということを重要なこととして取り扱っています(Ⅱコリント10:7、Ⅱテモテ2:7、ヘブル7:4)。
そして、ペテロは「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテロ3:15)と、弁明の重要さを明確に言っています。

 さて、カインの配偶者問題は脚光を浴びました。
本当は疑問の余地のないほど単純明快であるはずなのに、ちょっとした疑念を差し挟まれて目隠しをされると、たちまち大混乱に陥ってしまうのが罪深い人間なのでしょう。
そして、この問題は単に、人類最初の殺人者カインの妻が見つからないという、一見些細にも見えることではないのです。
イエス・キリストの十字架と復活による救いという、福音の基盤が揺らいでいることが問題なのです。

 カインの配偶者についての第一項において、結婚相手は姉か妹であったと考えるのが自然であり、少なくとも姪など近い血縁者以外にはあり得ないことを示しました。
第二項において、姉や妹との結婚を禁じる律法は、ずっと時代が下がって出エジプト後に、主がモーセを通して与えられたこと(レビ記18-20章)、そして近縁者の間の結婚がなぜ問題とされたのかを示しました。
したがって、カイン、そしてアダムの後継者、二代目のセツの結婚も同様に、姉か妹,または姪との結婚であっただろうと語りました。
それは近親結婚ですが、近親相姦などではないのです。最初の結婚は兄弟姉妹間以外にはあり得ないと認める人々でも、「人類史の始めには、兄弟たちの中には姉妹と結婚しなければならなかった者もいた(アンサーズ・ブック)という後ろ向きの発想法に立つのは、残念な気がします。
同じ親から生まれ同じ環境で育てられた兄弟姉妹は、相通じる心を持っていて当然でしょう。遺伝子に傷が付いていなければ、人生のパートナーとして本当は最高の組合せではないでしょうか。アブラハムがあんなにサラを愛したのも、そういう要因も加わっていたかもしれません(創12:11-13, 20:12)。

 カインの配偶者問題が非常に重要であることの理由として第一に挙げられることは、人類は全て例外なくアダムの子孫であるという大原則が、人々の心に深く根を張っていないために起こる混乱であることです。
創造の御業を全体としてよく理解し、どんな疑いの心もなく信じ切ることができていれば、カインの結婚相手が誰であるか判らなくなるはずはないのです。
ノデの地にアダムから出たのではない別の人間の存在を想定するという、大錯覚が生じる余地はないのです。
そのような人の存在は、聖書のどこを探しても見つかりません。これについては、まず創造の全行程が書かれている創世記1章から4章まで、そして5章に要約されています。
アダムは「最初の人」であり(Ⅰコリント15:45)、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出」(使徒17:26)されたのです。
エバについては、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。」(創3:20、新共同訳)と書かれています。
このように、人類は一人残らず、ひとりの男性・アダムとひとりの女性・エバから生まれた子孫であることは明らかです。

 第二に、人は罪を犯して神から引き離されたので(創3章)、神の元に戻るためには特別な救いが必要であるという重大な問題です。
不老不死に造られ完璧であった人は、罪を犯したので死刑の罰を受けました。
創造主に背くアダムの罪の性質とその結果について、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12、新共同訳)と書かれています。
すなわち、すべての人がアダムから引き継いだ罪を犯し続けたので、当然罰を受けなければならないのです(ローマ3:23, 24)。
そのままでは、永遠の滅びの奈落に落ちるしかしかたがない人類であったのです。

 この人類に、想像を絶する救いの道が備えられていました(Ⅰコリント15章)。神はもうひとりのアダムを地上に送り、「土で造られた、最初のアダム」の受けるべき罰を身代わりにその肩に負わせられたのです。
「天から出た、最後のアダム」が、罪のための十字架で血を流して死なれ(「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」ヘブル9:22)、「生かす御霊と」なられたのです。
この十字架による死と復活によってアダムの罪が拭い去られたのですから、アダムの子孫だけがこの福音の恵みを受けることができるのです。
「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることに」(Ⅰコリント15: 22)なったのです。

 聖であり、正義の神であられるキリスト・イエスが、なぜ、罪人の世界に身を卑しくして降りてきてくださったのか(マタイ1:17-25)、アダムの受けるべき罰、とりもなおさず私たちアダムの子孫が受けなければならない処罰を、身代わりに受けてあの苦しみを堪え忍び、血を流してくださったのか(ルカ23:34-47)、私たちには理解を超える出来事です(ヘブル2:11-18)。

 どのようにして、人類はいのちを与えられたのか、どのようにして罪を背負う存在となったのか、まず自分がどのようなものであるかを真正面から見据える必要があります。
なぜ、罪のないイエス・キリストがこのような重い罰を、私たちの身代わりになって受けて下さったのか、どのようにしてその罪の贖いが成し遂げられたのか、そして私たちが自分の支払い済みの領収書をありがたく受け取るにはどうすればいいのかを。
福音の真の意味を自分自身のこととして受け取ったときに、カインの妻の問題が何をはらんでいたかが理解できるでしょう。
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです」(エペソ3:6)。


参考文献:「アンサーズブック」ケン・ハム、ジョナサン・サーファティ、カール・ウィーランド共著

「創世記の記録」ヘンリー・M・モリス著 宇佐神正海訳、創造科学研究会