7-7.難問・珍問自分だけ天国に行く利己主義者?

第7章 Let's Q&A.

7-7.難問・珍問自分だけ天国に行く利己主義者?

トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネの福音書14:5-7)

 ある一人の熱心なクリスチャン(スミスさん、仮名)が、豊かな心の交流のある幸せな家庭生活、社会生活、そして教会生活を送っていました。
優しく愛情深い妻と、明るい娘と元気な息子の三人に恵まれた家庭において、スミスさんは良き夫であり、良き父でした。
両親は未だ健在であり、三つ年上の姉、二つ年下の弟とそれぞれの家族も、時に応じて一緒に集まり、楽しいひとときを過ごすこともありました。
そして、多くの心豊かでやさしい親友たちにも恵まれていました。教会においても率先して、喜んで人々に仕えていました。
勤め先でも熱心に仕事に励み、成果を上げて人々の信頼も厚く、そして人々に福音を語り、スミスさんを通して何人もイエス・キリストを信じました。全てが順調でした、たった一つのことを除いては。

 スミスさんが主の恵みによりイエス・キリストを救い主として受け入れたのは、十年以上も前のことでした。
救われた幸せの中で、真っ先に愛する家族に、そして親友たちに福音を語りました。
しかし、誰一人イエス・キリストを信じようとしませんでした。
この人々は謙遜で、心優しく、親切であり、弱い人々に率先して援助の手を差し伸べ、大きな犠牲を払ってでも人々に尽くす素晴らしい人々です。
聖書の教えとは知らずに、それを誠実に実践しており、人を赦し愛して、親切を尽くし、豊かな生活を送っている人々です。
スミスさんは十年以上も、この人々のために熱心に祈り続けました。しかし、彼らは全員イエス・キリストには背を向けたままでした。

 そして、恐るべき時が訪れました。
第一の親友がくも膜下出血で倒れ、五十代半ばにしてそのまま帰らぬ人となりました。
自分が傍にいながら遂に信仰に至ることがなかった友人のために、スミスさんは嘆き、そして自分の非力を悲しみました。
こんなに良い人がどうして地獄に落ちなければならないのかと、主に訴えました。
主のお応えはスミスさんの耳に届きませんでした。

 第二、第三の、そして第四の悲劇は足早に続けざまにやってきました。
スミスさんの姉と弟が病に倒れ、あっけなくこの世を去りました。
続いて、年老いた母親は看病疲れも加わり体調を崩し、胃ガンになり、一年余の闘病の後、死んでしまいました。
そして、五番目の悲劇は強烈でした。
結婚間近の愛娘が交通事故に遭い、若い命をあっさり散らしてしまいました。
スミスさんの一家をさらに不幸は襲いました。
子供二人に先立たれ、妻を失い、孫にまで先立たれた父親は、老齢でもあったために弱り切って、明日をもしれぬ病の床に伏してしまいました。

 スミスさんは、妻や息子と共に心を込めて父親を看病し、何とか生きる気力を取り戻してほしいと様々な手を尽くしました。
また、親友にも姉や弟、そして母親にもそうしたように、看病をしながら改めて熱心に、様々な視点から福音を語ったことは言うまでもありません。

 父は、「イエス・キリストとやらを信じないで死んだら、どうなるのか」と、弱い息の下から尋ねました。
もちろん父親は、何度も福音を聞いていました。
イエス・キリストを通してでなければ天国へ行く道はないことを、知識として知っていました。
それでも尋ねたのです。
そして、信じさえすれば、全ての人が例外なく天国に迎え入れられると、スミスさんがいくら繰り返し説明しても、無駄でした。

 父親の言い分は次のようなものでした。
自分の娘も息子も、妻も天国に行くことはできず、地獄で苦しんでいるというのだろう? 孫までがそういう目に遭っている。
愛する人々が永遠の苦しみの中にいるというのに、自分一人が天国に行って幸せになれるわけはないし、なってはいけないのだ。
楽しみも苦しみも共に分かち合うのが、夫婦であり、愛する者同士であるべきである。
それが地獄であっても死後も一緒にいたいし、地獄の苦しみがどのようなものであるとしても、自分はその苦しみを愛する者と共有したい。

 妻も父親の意見に賛成して、スミスさんに対して非常に批判的でした。
愛する者が、死後、本当に地獄という所へ落ちて苦しんでいるのなら、自分も死後は母親や娘のいる所へ行って苦しみを共にしてあげたい。
愛する者たちが地獄で苦しんでいるのを知っていて、自分は天国で幸せにはなれない。
キリスト教は愛の宗教ではないか。
家族を愛し、隣人を愛し、全ての人に親切を尽くすのが本来のキリスト教ではなかったのか。
自分だけ天国に行って苦しみを逃れようとするのは、余りにも自己中心で、愛のない行為ではないか。

 スミスさんはすっかり混乱しました。
この世の命を終えた後、天国に凱旋するという希望は、一体どういうことだったのだろうかと思いました。
足下がぐらぐらと揺れ動き、すべてが目の前でむなしく崩れ去ったという気がしました。
十年以上の宣教の働きが、自分の愛する者たちには全く通じず、無に帰してしまったのです。

 周囲の人々を何が何でも自分の思い通りに説得して、共に天国に行こうとする利己的な思いを正当化しようとしているだけではないかと、スミスさんは自分を責めました。
愛する人々を絶望の中に見捨てて自分一人だけ天国に行くことが、果たして愛していることになるのか、正しいことなのか、幸せであり得るのか、スミスさんには判らなくなりました。

 「信じないで死んだらどうなるのか? 自分だけが天国に行くのか?」という切実な課題は、日本人クリスチャンのほとんどが抱えている問題です。
愛する両親を初め親族、友人たちの大半はクリスチャンではありませんから、心が痛むのです。
このような状況に直面して、人間として、信仰者として、どうすることが正しいことであり、愛のある行動なのかという葛藤の中で苦しむことになるのです。
日本には大勢のスミスさんがいるのです。
筆者自身もこの苦しみを通過して親友の一人はすでに亡くなり、また愛する母を看取りました。
そして、今もなお、その苦しみの中にいます。
この問題を抱えている方々はもとより、そうでない方も、自分をスミスさんの立場において、どうすればいいかを具体的に考えてみてください。

次回、この問題を少し掘り下げたいと思います。