7-8.難問・珍問自分だけ天国に行く利己主義者?2
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります(マタイ10:34-36)。
スミスさんの悲しみ、悩み、苦しみ、心の葛藤に、少し思いを巡らせたいと思います。スミスさんの体験と悩みは、ほとんどそのまま私が辿っている悩みであり、多くの日本人が多かれ少なかれ体験しなければならない悩みではないでしょうか。
「私が最初に救われて小さな核となり、夫(あるいは妻)が救われ、両親が救われ、子どもたちが救われました。
そして、その後はどんどん福音の伝播速度が速められ、兄弟姉妹をはじめとして、いとこ、はとこなど遠い親戚に至るまでクリスチャンになりました」(使徒16:31)。
こんな幸せな証を聞くことがあります。そして、それを聞いているスミスさんのようなクリスチャンは、「ハレルヤ!」と単純に言い切ってお終いにしてしまえない複雑な悲しさ、苦しさを噛みしめるのです。
スミスさんは主に泣き叫びました。でも、何のお答えも聞こえてきませんでした。スミスさんは自分の信仰生活、福音の理解、聖書の理解、そして宣教方法について再吟味しました。クリスチャンになって大きな価値観の転換を遂げたと、自分では思っています。
しかし、クリスチャンになる前でも、取り立てて悪いことをしていたわけではなく、人間的には善人でした。家族や親戚、友人たちと同様に善人で、人々と仲良くし、平均的な世の中の人々より遙かに熱心に、弱い人々に対する奉仕活動をしていました。
さまざまな福祉活動に対して、快く経済的支援もしていました。支援をする団体は、キリスト教関係やその他の宗教団体であることもありましたが、大半は宗教とは関係のない組織でした。
スミスさんの家族は、祖父母も、両親も、スミスさん夫婦も、親戚もそのような社会参加をしている家族でした。だから、地域社会の重要な一員であり、尊敬されていました。
スミスさんは、クリスチャンになったので奉仕の場が教会になりました。他の団体への奉仕をいきなり切って捨てたわけではありませんが、徐々に少なくなりました。そのことが問題かもしれないと、スミスさんは思いました。
一般社会との接点を切り捨てたわけではなく、大切にしたからこそ、スミスさんの周囲で多くの人々が福音に触れ、そしてイエス・キリストの元に戻ってきたのは事実であるとしても・・・・。
しかし、家族や親しい友人たちは別の側面を見ていたのでした。昔は、一緒に旅行や映画に出かけ、ゲームをし、適当に贅沢をして、どのような宗教的催しや建造物や芸術作品であろうとそれを楽しみ、その美に感動し、さまざまな体験を共有していました。
家族揃って奉仕活動や寄付に参画し、喜びを共に分かち合いました。このような家族の団らん・一体感は、スミスさんがクリスチャンになったために、ずたずたに引き裂かれてしまったと家族は受けとめました。
スミスさんはキリスト教以外の催しには参加しなくなり、旅行や贅沢も極力避けて、そのようなお金は教会に捧げられ、非キリスト教的芸術品などに感動しなくなりました。
日曜日やその他、折に触れて、スミスさんは家族をおいて、自分だけ礼拝や集会に行っていました。
もちろん、一緒に行こうとしばしば誘いましたが、スミスさんが熱心になればなるほど、家族はそっぽを向きました。家族や親戚や友人たちは、程度の差はあっても、寂しい思いをしていただろうし、クリスチャンになるとは心の冷たくなることだと思っているようでした。
イエス・キリストは人々の間に不和をもたらしたと、本気で考えているようでした(マタイ10:34-36)。
スミスさんは、聖書を味わうには十年という歳月は短すぎると思っていました。
もとより他に職業を持っている献身者ですから、日常生活の時間の大半は、直接には信仰と関わりのない仕事に費やされています。
聖書を読み、深く思索する時間は限られています。個々の聖書知識が余りにも貧弱なことは前々から気にかかっていましたが、さらに、一応あるレベルまで体得したと思っていたこと、すなわち聖書全体を貫く主の摂理さえも、確かなものとして受けとめていると思えなくなってしまいました。
自分は福音を本当には理解していないから、一番大切に思っている人々からはねつけられてしまうのではないだろうか?
「愛するイエス様」などと、気軽に言いながら、本当は愛がわかっていないから、彼らが言うように、自分だけが天国に行って、それで良いと思っているのではないだろうか?
それがどんなに厳しいものであっても、地獄の責め苦を最も愛する人々と共に堪え忍ぶのが、愛ではないだろうか? 罪のないイエス様が、人々のために十字架の苦しみを嘗めてくださったのに、罪深い人間である自分が苦しみを逃れようとするのか? 彼らと苦しみを共にすることを避けて、安全圏にいて宣教活動をしている自分の姿勢に彼らは反発しているのではないだろうか?
スミスさんは、自分が生活の中でちゃんとした証が出来ていないとも思いました。日々の生活の中で、イエス・キリストの香りを放つことが出来ていたら、何も言わなくても家族は救われるはずであるのに、自分の生活態度が悪いのだろうと思いました。生活を見直しました、悩みました、自分はそんなに清くも正しくもないと思いました。人々に福音宣教する資格など、どこにもないと思いました。もしかしたら、自分は天国に行けると錯覚しているだけではないかと思いました。
考えれば考えるほど、底なし沼に足を取られて、ずるずると深みにはまり込んでいってしまったのです。日本の多くのスミスさんたちに、一言だけ付け加えます。彼が落ち込んだ混迷の泥沼から、スミスさんを御言葉によって救い出してくださいますようお願いいたします。



