7-18.難問・珍問進化の痕跡器官?胸腺[1]胸腺と重症筋無力症

第7章 Let's Q&A.

7-18.難問・珍問進化の痕跡器官?胸腺[1]胸腺と重症筋無力症

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。(ヨブ記38:1-4)

 前胸部の真ん中の骨(胸骨)の真下、心臓の上部、上大静脈・大動脈の前にある白く不定形でやわらかい胸腺は、小児期には大きく10才代前半で最大、こぶし大になります。
胸腺の中に白血球の一種であるリンパ球が詰まっていることは古くから知られていましたが、働きについては解っていませんでした。
その上、加齢に伴って胸腺は萎縮し、成人で35~50g(報告により大差)、老人になると痕跡ほどにまで小さくなります。
このように謎に包まれていたので、昔、胸腺は進化を証明する痕跡器官だと考えられていました。

 しかしながら、1900年代半ばになり胸腺の働きは少しずつ明らかになりはじめ、この臓器が、かつて痕跡器官とされたのが信じられないほどに重要な機能が判明してきています。
1960年発行の生物学辞典では、胸腺の項に相当のスペースを割いています。
しかしながら、「魚類以上の脊椎動物に見られる咽頭派生体の1種で、・・・生殖腺の支配下にあることを思わせ、また胸腺の早期摘出は成長や成熟に何らの作用を及ぼさないことから、内分泌腺としての機能が疑われている。・・・」などと書かれているに留まり、現在判明していることを鑑みると隔世の感を覚えます。

 現在、胸腺を痕跡器官だと考えている人はいないでしょうし、そのように説明している書物も見あたりませんでした。
それどころか、重要な生理機能が積極的に記載されています。
扁桃や虫垂について、その機能が判明した現在でも進化を証明する痕跡器官だと教えている教科書もあることを、前項までに詳細に検討しました。
これらについても、遠からず胸腺のように認識される日が来ることを信じて、約7~80年前には痕跡器官と信じられていた胸腺について、現在どのように理解されているかを、本稿から何回かに亘りご紹介します。

 何事においても正常に存在し機能を果たしているときには、その存在や重要性に気が付かないことは珍しくありません。
空気が汚れてはじめて清浄な空気の重要性を知り、地球が温まりすぎ水が汚れて、これらが何を意味しているかを知って人類は危惧しはじめました。
人の体も異常を来してはじめて、その臓器の機能に思いを馳せることが出来るようです。

 昔、痕跡器官と考えられて殆ど無視されていた胸腺に異常が起こると、どのような弊害が及ぶかを少し見てみましょう。
胸腺に腫瘍が出来た場合(胸腺腫)、症状として咳が持続したり、胸部に痛みがあったりすることがあります。
しかし、胸腺腫があっても症状が見られないこともあり、健康診断や病院でたまたま胸部エックス線検査を受けて異常を指摘されたり、悪化してから、あるいは他の病気の合併症で発見されたりすることが多いようです。
合併症には多発性筋炎、全身性エリテマトーデス(紅斑性狼瘡)、関節リウマチ、甲状腺炎、シェーグレン症候群(膠原病の一種)、低ガンマグロブリン血症がありますが、最も頻度の高い合併症は重症筋無力症です。

 重症筋無力症は、筋肉の力が弱くなり体の筋肉を動かしていると疲れてしまう病気です。
おかされる筋肉によって、瞼が垂れ下がる、斜視になる、目が疲れる、また、食物を噛んだり飲み込んだりするのに困難を覚え、むせたり喋りにくくなったりします。
また、表情が作れず怒ったような顔になる、字が書けない、持った物を落とす、階段が登れない、立てない、歩けないなどの症状があり、呼吸も困難になります。
重症筋無力症は、自分自身の体に対する抗体が生じたための病気、すなわち自己免疫疾患の一つで、厚生省の特定疾患(難病)に指定されています。

 重症筋無力症の病因は判明していませんが、筋肉が弱くなるのは体の中に抗アセチルコリン受容体抗体という抗体ができ、これが筋肉細胞の膜に存在するアセチルコリン受容体に結合するためです。
図に示したように、正常な神経節接合部では、青緑色で表した受容体がアセチルコリンと結合し高次構造が変化して(赤で表す)、神経からの刺激を筋肉の細胞に伝えます。
ところが、重症筋無力症の人では、Y字で表した抗体が受容体に結合するために赤色の構造への変換が出来ず、神経からの刺激が伝わりにくくなっているのです。

 ある病院の統計によると、この難病の患者の25~30%は胸腺腫を合併しており、逆に胸腺腫の22%に重症筋無力症を合併していると報告されています。
このような相互の関係から、胸腺腫が重症筋無力症を引き起こす原因になっているのであろうと考えられています。

 重症筋無力症と胸腺腫の間に密接な因果関係があるのは明らかなのですが、その発症の機構は解明されていません。
免疫細胞であるT細胞(胸腺で成長する)の分化が、正常な胸腺と腫瘍のある胸腺とでは異なり、胸腺腫の発症により自己抗原に反応するT細胞が成熟して、様々な抗原に対する抗体を作ってしまい、その一部として抗アセチルコリン受容体抗体が産生されるために重症筋無力症になるのではないかと考えている人もいます。

 この病気の治療として、胸腺摘出術が行われることがあり(ある外科では患者の80%が摘出術を受けている)、摘出により筋無力症が改善されることが報告されています。
特に胸腺腫がある場合は、胸腺とその腫瘍を取れば筋無力症もよくなります。しかし、胸腺を切除することによって、なぜ筋無力症がよくなるのかは解っていません。

 胸腺を切除した後は、例えば白血病治療のために骨髄移植などの治療を受けることは避けた方がよいと書かれています。
その理由として、T細胞を作るのに胸腺が必要なためだと明記してあるのは、かつて痕跡器官とされていた臓器であるだけに、非常に興味深く思われます。


参考文献:「人体の構造と機能」エレインN.マリーブ著 林正 健二他訳 医学書院;「Human Anatomy & Physiology」, Elaine N. Marieb, Addison Wesley Longman, Inc.;「胸腺腫と胸腺がん」、東京慈恵会医科大学・外科学、Web Site;「重症筋無力症について」名古屋市立大学第2外科・藤井義敬、Web Site;「胸腺種・胸腺がん」、財団法人国際医学情報センター:がんInfo、Web Site 、「生物学辞典」岩波書店、(1960)