6-4.繁栄する悪人

第6章 ノアの洪水

6-4.繁栄する悪人

洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです(マタイ24:38, 39)。

 新改訳・口語訳聖書には「悪者」「悪い者」「悪人」「悪しき者」という言葉が数多く出てきます(新改訳では旧約聖書261箇所、新約聖書21箇所)。
これらの言葉は、普通の日本語としては、「法律違反」をした人間を指している響きがあります。それ故、信仰が深まるまでは、或いは、言葉の中身を何とか頭の片隅で翻訳して読めるようになるまでは、これらの言葉が使われている箇所は理解し難いでしょう。一方、英語訳は法律違反の有無とは直接関係なく、むしろ人間としての中身・心が、悪意があり邪悪で不信仰であることを意味する単語、"wicked", "evil" 或いは"ungodly"が使われています。また、新共同訳ではその多くが「神に逆らう者」と翻訳されています。

 これらでは、法律という網に引っかかるかどうかには関係なく、絶対者に背き、「心に計ることがみな、悪いことだけに傾く」者という(創世記6:5)、実は本質的な「悪い人」を意味しているのでしょう。
洪水前の世界の状態に関する聖書の記述は(創世記4:19-24, 6:1-13、マタイ24:38, 39)、今の世界の状態について書かれているのではないかと、ふと錯覚に陥るほどではないでしょうか?当時、工業技術が進んでいたことが伺われますが(創世記4:22)、現在はさらに急速な技術革新の激しい波に洗われ、人間として真っ直ぐな道を見失い、歪んだ物質主義的価値観に世の中が浚われています(ルカ17:28)。
斉一論的考え(ルカ17:27-29、ヘブル11:7)が浸透し、創造主を認めず、無視し、冒涜的な思想や行動が社会に蔓延し(申命記10:12-14、Ⅱペテロ2:5、ユダ15)、暴虐で満ち、堕落した考えや活動が広がり、社会全体が腐敗しています(創世記6:5, 11-13)。組織的なサタンの活動(創世記6:1-4)はますます激しくなり、人々は快楽と安逸を求め、性的堕落は(創世記4:19, 6:2)、現在日本を始め多くの国々で公民権を得ていて、堕落だと考えることは差別であると非難されるに及んでいます。ここで道草をして、性的堕落について少しだけ付け加えます。

 洪水の裁きの後も、甚だしい性的堕落の例が数多く聖書に書かれており(創世記29章、Ⅰサムエル1:2、エレミヤ3:1-5、ホセア1:2)、特に尊敬を受けているアブラハム(創世記16章)やダビデ(Ⅱサムエル11章)の堕落の例も赤裸々に書かれています。初めて聖書を手にする人は、性的堕落を主が認めておられ、遊女の存在や一夫多妻が主の御旨であると錯覚するほどです。もちろん、人間が創造主に背いているのであり、時に応じて主は厳しく処罰され、堕落の限りをしている人間が悔い改めるのを、忍耐して待っていてくださるだけのことです(申命記23:18、ヨシュア2章、6:17, 25、Ⅱサムエル12:1-23、イザヤ1:21、マタイ5:27,28)。
血で血を洗う戦争は一般の日本人にとってまだ身近に迫っていないとしても、凶悪犯罪はかつてないほど多くなり、犯罪が低年齢化し、そして犯罪・自殺など事件が起こった後で、「そんな人には見えなかった、普通の良い人だった」と周囲の人々が述べるのを、しばしば聞くのです。犯罪に関わるところまで至らなくても、人間中心・自己中心で悪いことだけに心が傾き、社会全体に様々な悪・不安が満ち溢れていることは、誰もが頷く昨今の世界ではないでしょうか。
人々は互いに信じたり、思いやりを持ったり、愛したりすることから遠ざかり、心を閉ざし、じっと我慢し、孤独を噛みしめ、息を潜めてかろうじて生命をつないでいる不幸せな人々が大勢いるのではないでしょうか。創造主から遠く離れ、人生の意義・目的が見出せず、いのちを喜んで生きていくことが出来ない人々で満ち溢れています。

 「人の寿命は百二十年に定められたのか?」で学んだように、主は洪水の前に警告を出されました。ノアの家族は裁きが来ることについて主から警告を受けて(ヘブル11:7)、箱船を造りつつ義を宣べ伝えました(Ⅱペテロ2:5)。そして、主が忍耐して待っておられたにもかかわらず、結局人々は従いませんでした(Ⅰペテロ3:20)。主が再臨なさり(マタイ24:37-42)、信じる人々がその瞬間にその場で空中へ携挙され(注1)、大混乱に陥った世界に取り残された人々を描いた小説(注2)が、最近、翻訳されました。
この小説をどのように解釈するかは各人各様ですが、ノアの洪水前夜の様相を呈している現在の世界のありようを、主イエス・キリストの御再臨が間近に迫っている徴候だと受けとめる人々は大勢いるようです。ソドムの町(マタイ10:15、Ⅱペテロ2:6、ユダ7)の赦しを主に乞い願うために、「正しい人が50人いたら」と頼み始め、それから、「45人いたら、30人、20人、そして10人いたら」と、執拗に懇願し続けたアブラハムと、それを愛情深く聞き入れられた主との会話に思いを馳せずにはおれません(創世記18:23-33)。

 正しい人がたった10人いれば、町全体を赦される愛の主は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」(Ⅱペテロ3:9)、昔と同じように今も、忍耐深く待っていてくださるのです。でも、ノアの時代に「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかった」ように、聖書にこれだけ明らかにされているにも関わらず、現代もやはりすべてのものが浚われるまで、人間には何も見えないのでしょうか。

注1:「携挙」主の再臨の時に、生存している信者は、死を味わわないで、朽ちないものに変えられる(Ⅰコリント15:51,52)。そして「雲の中に上げられ、空中で主と会う」空中携挙と「いつまでも主と共にいる」出来事が続く(Ⅰテサロニケ4:17)。注2:「レフトビハインド」ティム・ラヘイ/ジェリー・ジェンキンズ著、上野五男訳(いのちのことば社)、参考文献:「創世記の記録」ヘンリー・モリス著、宇佐神正海訳