6-5.心痛められた主

第6章 ノアの洪水

6-5.心痛められた主

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」(創世記6:6, 7)

 地球全体を滅ぼそうとして主が起こされた大洪水を理解するために、もう少し背景について学びたいと思います。
人は愛に包まれて創造されましたが、この大きな祝福を理解できず、感謝を忘れ、主を裏切り続けました。地は暴虐で満ちて、もはや修復が出来ない状況に至りました。それで、大決断を下されるにあたり、「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ」「残念に思」われたと書かれています。

 創造主を認めず、骨の髄まで進化論の味が染みこんだ「煮しめ」になり、多種多様な偶像を大切にして生きていた日本人が、イエス・キリストによる赦しを無償で戴いて創造主を知った後に、この箇所を読めば「え?」と思わないでしょうか?聖書の真実の著者は主であると本気で信じて真剣に読めば読むほど、理解出来なくなるのではないでしょうか?
全知全能であられる創造主が、御自身のなさったことを、「悔やみ」、「残念に思」ったりされるでしょうか。人が主に背き、暴虐に翻弄されるだろうことも全部前もってご存じだったのではないでしょうか?むしろ、人を完全に従わせることさえ、お出来になったのではないのでしょうか?

 主が、後悔なさった、或いは御心を変えられたように見える記載がこの箇所以外にもあります。選ばれてイスラエルの王に任じられたサウルが、様々な悪いことをした時にも、主は「サウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」(Ⅰサムエル15:11)と、やはり後悔なさったと書かれています。この両聖書箇所いずれも、翻訳毎に使われている言葉は多少異なりますが、意味の差は無いようです。フランシスコ会訳では、「悔いる」と翻訳し、「神が罪を極度にきらっておられることを強く表現した言葉。神は不変」と注釈が付いています。

 ところが、「悔いる」ことについて、「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。」(民数記23:19、Ⅰサムエル15:29にも同様の記載)と書かれており、これが創造主の真実なのです。創造主は三位一体の唯一の方、時間・空間・諸法則(物理・化学・生物の法則)を創造し、宇宙、地球、地球上に置かれた植物、動物、そして人間も、すべてを完璧なものとして無から創造された方、過去・現在・未来永劫についてすべてをご存じの方、主にとって不可能はなくすべてのことがお出来になる方、時間・空間を手中に収めて支配しておられる方(人間は支配を受けます)、永遠の方、そして愛・正・義・聖そのものである方です。そして、すべての責任と権威を持った絶対者であり、救い主であり、裁き主です。このようなお姿の全貌を本当に理解することは、人間には不可能でしょう。

 現在、地球の壊滅が心配され、また国家・民族間、職場、各種団体、隣近所、そして家庭でまで、ありとあらゆる争いの絶えないいのちを生きている私たちには、この完全の内容を理解出来るとは思えません。創造された時、地球は北極や南極が氷で覆われていたのか、砂漠があったのか、生活や生命を脅かす台風や竜巻や地震など天災はあったのかなどの疑問を持って、完全な地球を思い浮かべることが出来るでしょうか?人間を初め動物は全て不老不死に造られ、完全ないのちであったという内容を、私たちは理解出来るでしょうか?
しかし、創造主は、ご自身の完璧な作品を維持するための偉大なご計画をお持ちなのです。唯一の小さな制限(創世記2:17)さえ守ることが出来ず、罪が人に入り、その後内側で解き放たれ、手が付けられない暴走を始めましたが、主はじっと忍耐強く人が悔い改めるのを待っておられました(Ⅰペテロ3:20、前項「(54)繁栄する悪人」参照)。しかし、主は正しい方、義なる方、聖なる方ですから、悪を憎まれます。人間の極限に及ぶ暴虐な心の思い・行動をやめさせなければならない時が遂にやってきたのです。創造主の壮大な御旨の遂行のために、これ以上待つことが出来なかったに違いありません。

 真実の愛を互いに通わせ合う対象とするために、主は人を御自身のかたちにお造りになったのです。創造主のみ姿を映されたということは、自由意志を与えられ、愛の交流が出来、良心を与えられたということです。ロボットとして造られたのではないということを、肝に銘じておく必要があるでしょう。しかし、主のみ姿に似せて造られても、人は人でした。人が主に背くことも、ご存じだったのです。だから十字架による救いまでも、初めからご計画に組み込まれていたのです。

 このように熟慮すると、主が悔やまれたと書かれている内容が理解出来るのではないでしょうか。人間の方が主に対して心変わりをし、背き、態度を変えたに過ぎないということなのです。主はいつまでも変わらない方(伝道者の書3:14、ヘブル13:8)であり、途中で気が変わって全世界を水で覆う大洪水を起こされたのではなく、全てをご承知の上で正しい裁きをなさった(詩篇9:8)のだということを、まずしっかりと腹の底に沈めてから、ノアの洪水を理解する必要があるでしょう。

注:創造主ご自身について、創造のみ業について、そして完璧なものとして創造された被造物について、35回にわたって「六日間の天地創造」の項で様々な角度から検討しています。参照してください。参考文献:「創世記の記録」ヘンリー・モリス著、宇佐神正海訳