5-2.はじめ

第5章 6日間(144時間)の天地創造

5-2.はじめ

初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)。

 私たちがいのちを得た瞬間から、様々な様式・様々なレベルの「知る」・「悟る」という行動が、自己を中心にして広がっていきます。周囲に存在する様々な物質やいのちの営みについて、それらを包む周辺環境や地球、そして広大な宇宙について人類は学んできました。それぞれの物質、例えば車やパソコンは誰かにデザインされ造られたこと、いのちは同じ種類のいのちから、例えば犬から犬が、猫から猫が生まれることを学びました。このように単純なことについては、疑問を差し挟む人はいないでしょう。ところが、不思議に満ち満ちた遙か彼方の宇宙や、また、いのち・生命現象について分子・原子レベルの詳細な知識が増えるにつれて、創造主を離れて人間中心の深い思索に及んだために、物質、宇宙、いのち、すべてのことの始まりに関する理解は混迷の中に陥りました。漠然としていた「永遠であり、そのもの自体として存在している宇宙」という概念が、科学的に成立しなくなってしまったことに、科学者たちは愕然としたのです。

科学者は「原因があって結果が生じるという、普遍的な因果関係を感じている」(アインシュタイン)ので、すべての結果には原因があり、一番最初の原因を想定しがたいのです。必ずその前の原因、又その前の原因があるはずだからです。いつ、どのようにして、誰が「はじめ」たのか?そして、その「はじめ」の前には何があったのか?「はじめの前」の、その前には何があったのか?非常に大切な基本的な疑問なのに、果てしもなく続く疑問の先は茫漠とした暗闇です。しかも、研究が進むにつれて、「銀河の動き、熱力学の法則、星の一生、どの証拠も一つの結論、『この宇宙には、はじまりがあった』ということを指し示している」と、物理学者や天文学者達は結論せざるを得なくなってしまいました。普遍的な因果関係を信じているために、世界に始まりがあったなどという見解には、科学者は耐え難い思いをするのでしょう。この「はじまり」は、人類が知っている物理学の法則が当てはまらない状況下で起こり、私たちが発見出来ない力や状況の結果として起こったからです。

多くの天文学者は、これらの質問について考えるのを拒否します。「その大爆発の前にこの宇宙がどうだったかは、誰にも分からない。どんな方程式も解答を与えないし、私は考えることを拒否する」(J・ピーブルス)。「宇宙の始まりについては、いかなる判断・主張も出来ない。」「我々の宇宙像は、神なしには完結しない」(E・A・ミルン)。「誰が創造主(原動力)なのか?」と問いつめる大胆な学者も少なからずいるようです。「無からの創造-無から自然を創り上げている神の意志-を自明のこととする方が自然だ」(E・ウィタカ-)

全宇宙は創造主により「造られた」(詩篇33:6)、つまり、「無」から「存在」へと創造主が「呼び出され」(ローマ4:17)たと、聖書に明言されています。創造主のみが無限で永遠の存在であり、全知全能なのです。エレミヤは「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません」(エレミヤ32:17)と書いています。このようにすべてを超越した創造主を、人間が充分に理解することは不可能ですが、「この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないこと」(ヘブル11:3)を、心の奥深いところで悟ることは出来るのです。

「天、すなわち全宇宙空間の広がり」と、「地、すなわち質量・物質・エネルギー」を、「初めに、すなわち時間という有限の世界に」呼び出し、存在させられたことを、聖書の冒頭で全知全能の創造主は明確に宣言しておられます。永遠の御国に人々を招いて満たし、また住環境、食物などを整えて、人々が地上で祝福の中で快適に生きることが出来るように、創造主の叡智によって「右の手が天を引き延ばし」(イザヤ48:13)、「地の基を据えられ」(詩篇102:25)、万物を創造されたので、「はじめ」のスイッチが入ったのです。


「だれが宇宙を創ったか」ロバート・ジャストロウ著、講談社(1992)、「創世記の記録」ヘンリー・モリス著、創造科学研究会(1992)、「創造」vol 3, No.2 (1999); vol. 2, No. 4 (1998)