5-25.創造主のかたち

第5章 6日間(144時間)の天地創造

5-25.創造主のかたち

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26,27)

 人の体は動物の体が造られたのと基本的には同じ方法により同じ構造を与えられ、いのちの息を持つものとして造られました。(創世記1:24, 2:7, 7:22)。
しかし、人は肉体も魂も動物より遙かに複雑であるという相違以上に、本質的に異なるものとして、すなわち、創造主のかたちに造られました。「われわれに似るように」「われわれのかたちに」「ご自身のかたちに」「神のかたちに」と、この二節に繰り返して述べられているのは、この内容が創造主にとって非常に大切であるということではないでしょうか?

 ところで、創造主のかたちとは、一体何でしょうか?私たちには見えない霊であられる全知全能の創造主は(ヨハネ4:24)、肉体が無くても実際に見ること(創世記16:13)、聞くこと(詩篇94:9)、においを嗅ぐこと(創世記8:21、レビ記26:31)、触れること(創世記32:32、アモ        ス9:5)、話すこと(Ⅱペテロ1:18)をなさるということは、数多く聖書に書かれています。
そして、人に耳を植え、目を造られた方は当然お聞きになり、ご覧になるのだと(詩篇94:9)、人が創造主のかたちに似せて造られたことの内容の一部が記されています。
イエス様が「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)であり、人は「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」(ローマ8:29)と書かれています。
これはイエス・キリストのこの世での肉体的なお姿として、前もって定められていたかたちを模して人が造られたことをも意味していると理解しても良いでしょう。

 創造主のかたちとは、もとより肉体以上の大切なことであるのは言うまでもありません。
「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:5)と書かれており、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり」(ヘブル1:3)、そして人はキリスト・イエスの本質を反映するものとして造られたのです。
創造主のかたちに造られたということの内容が実際にどういうことであるのか、何を意味するのか、十分理解することはもとより不可能ですが、動物には与えられないで人にだけ与えられた特性について、少し考えてみたいと思います。

 抽象的にものを考える能力、科学的思考、哲学的思考などを駆使する能力は人間にだけ与えられた能力であり、自然科学の驚異的進歩は誰しもが認めるところです。
空を飛び、遂に宇宙へも重装備で出かけることが出来るようになり、他方、細胞レベルを遙かに超えて分子レベルで生命体を観察し理解する技術を獲得しました。
美や感情を知的に、そして情緒的に理解する能力、音楽や絵画などを楽しむ心、定められた約束に則ってスポーツを楽しむ心などもまた、人間だけに与えられた特性です。

 確かに、創造主を認めず、背く罪の性質が、人の本性の中に紛れ込んでしまいました。
罪にまみれてしまった人類は、創造主を思わず(マタイ16:23)、人間中心・自己中心でいのちの意義・目的を見失ってしまい、永遠を思わなくなっているのは事実です。

 人の声、自分の声にのみ耳を傾け、主のみ声が聞こえなくなり、主との交わりから遠のいています。
それでもなお、主からの賜物として人にだけ埋め込まれた道徳的良心は、罪が入った後でさえ人から拭い去られたわけではありません。
人に映された主のかたちは、どれも欠けてはならない大切な特性ですが、それが罪によって人の霊魂の奥深くに閉じ込められ、押しつぶされていても、やはりそこに埋め込まれたのは確かなことであるのです。
だからこそ、信仰を取り戻し、御霊によって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」(Ⅱコリント3:18)く希望を与えられているのです。

 創造的な力と自由意志を与えられた人類は、自由な心の発露として創造主と霊魂を通わせ合う能力があり、人にだけ創造主を愛し礼拝する能力が与えられたことは特記すべきことでしょう。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝」(4:24)することを主は「求めておられる」(ヨハネ4:23)のです。


参考文献:「創造」vol. 5, No.2/3 (2001);「創世記の記録」ヘンリー・モリス著、創造科学研究会