5-30.人と心通わすもの

第5章 6日間(144時間)の天地創造

5-30.人と心通わすもの

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。(創世記2:18~20)

 人は進化論的つながりによって、他の動物と関連を持つ単なるもう一種の動物に過ぎないのでしょうか。
最初の男と女は神の特別な被造物で、動物とは本質的に全く違う存在です。進化論という仮説は、様々な自己矛盾の中で根底から破綻していることを、先にいくつかの例によって学びました(【聖書と科学】欄、進化論の矛盾恐竜血液と海水馬の話)。
「人が類人猿に似た祖先から進化したという仮説」を支えるとされる資料も、同様に破綻していることについては、別の機会に学びたいと思います。
人は初めから人であり、類人猿は常に類人猿であること、つまり類人猿から人への進化はあり得ないことを、まず聖書から、この項と次の項の二回にわたって学びたいと思います。

 すべての動物は雄と雌とに造られ(創世記6:19)、種類に従ってその子孫を生み、地を満たすようにと指示されていました(創世記1:22, 24)。
創造主のかたちに造られた人は、非常に特別な、二段構えの方法によって創造されました。主は地のちりからアダムを創造し(創世記2:7, Ⅰコリント15:47)、この完全な成人男子・アダムの肋骨からエバを創造なさったのです(創世記2:21, 22)。
アダムの助け手が動物の中に見付からなかったという「失敗」を修正するために、「人が、ひとりでいるのは良くない」ので、主はエバを造ることを思いつかれたのだと解釈する人々もいます。
しかし、創造の全企画に始まり、イエス・キリストによる罪の贖い、そして黙示録に至るまでのすべてを、全知全能の創造主は初めから決定なさっていたのだということを忘れてはならないでしょう。

 動物の身体が地のちりから造られたのと同じように、アダムの身体も地のちりから造られ、肉体の構成成分は動物と同じでした。しかし、内面の本質的なことに関しては、人だけが特別でした。
アダムは動物たちを観察し命名する最初の任務を創造主から与えられ、この任務を遂行する中で、正に管理する責任を自覚したでしょう。
アダムは「創造主のかたち」に造られたので、自分に似た性質を持った仲間を必要としていました。が、実際に動物を調べてすぐに判ったように、外見的な姿・かたちにおいて、また知的かつ霊的な面において、アダムと同じもの・似たものはいませんでした。
そして、すべての動物が自分とは全く異質であること、仲間にはなり得ないことを悟り、孤独を味わったことでしょう。「アダムにはふさわしい助け手が、見付からなかった」のです。

 仮に、「類人猿」から進化してきたのであれば、類人猿的外見・内容をアダムがどの程度残していたかということには関係なく、すべての動物を観察すれば、アダムに極めてよく似た直近の先祖、一代前の類人猿がいたはずです。身体的特徴はアダムそっくりだったはずですし、精神的交流もあり得る存在だったはずです。アダムがふさわしい助け手として任命できた個体はたくさんいたはずでした。

 しかし、アダムに似た生き物は全くおらず、アダムと仲間になり、真の交わりが成立する可能性を備えられた動物は、ただの一つもありませんでした。アダムが彼らから進化して来たことを示唆するものは、どこにも全く見あたらなかったのです。このように人類進化の考えは、聖書の明白な記述に対立し矛盾しているのです。


「創世記の記録」ヘンリー・モリス著(創造科学研究会)、「創造論の世界」久保有政著