5-34.選択の自由

第5章 6日間(144時間)の天地創造

5-34.選択の自由

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:15~17)

 造された人は完璧な環境であるエデンの園に住み、土地を耕し、園を秩序正しく保ち、すべての被造物を含む生態系を保全・管理する責任と栄誉を与えられました(創世記1:28, 29, 2:15)。創造主は愛そのもの(Ⅰヨハネ4:16-19)であり、その愛のみ心と喜びの故に、相互に愛しあい信頼し合う対象として、人間を創造なさいました(創世記1:26, 27、黙示録4:11)。全知全能で完璧である創造主は、不完全な愛の関係では満足なさいません。
 人を恋い慕い(申命記7:7)ねたみを持たれるほどに(出エジプト20:5、ヤコブ4:5)、完璧な愛の関係を持つことを望んでおられるのです。そして後に来る世において、キリスト・イエスによる卓越した慈愛と恵みを豊かに注ごうとされました(エペソ2:7)。
 愛はその性質上、当然、自由意志に基づくものでなければなりません。創造主は愛を込めて御自身のかたちに人を造られたのであり、自由意志を持たないロボットのようなものをお造りになったのではありません。人の必要を主は豊かに備えて、園にあるどの草も、「生命の木」を含めてどの木の実であっても、欲しいだけ取って食べる自由を与えられました。
 ただ、信頼に基づいた真の愛の関係を確認するために、たった一つだけ小さな制約を設けられました。善悪の「知識の木」の実だけは食べてはならないと言われました。それを取って食べると、何か知識が与えられる魔術的物質が果実に含まれていたと示唆されてはいません。恐れからではなく愛と信頼に基づいて、神の命令を人が全うすることを主は望まれたのでした。人は主のみ前に道徳的に真に自由であり、喜んで従う自由と同様、背く自由を持ち、完全な「選択の自由」を与えられたのです。

 主が食べることを特別に禁じられたこの木の実を、創造後どれくらい経ってから人が食べたのか分かりませんが、この行為によって愛と信頼の関係が破壊され、隔ての壁を生みだしました。神の御心を・愛を拒絶すること、信頼を裏切ることが「悪」であることを学びとりました(創世記3:8-10)。生命の源である創造主との霊的交わりによってのみ人はいのちを得ることが出来るのですから、生命の源から断絶されて人は霊的に死に、また精神的・肉体的にも崩壊と死の原理の中に入り、人のみならずいのちあるものすべてが不老不死でなくなったのです。

 聖書には与えられた選択の自由を間違って使ったために失敗した大小様々な例が書かれています(民数記16章、ヨシュア記7章、Ⅱ列王13:18-19、Ⅰサムエル13:8-14)。一方で、ノアのように主のみ旨に忠実に従って生きた人々もいま
す(創世記6-9章)。
 主の仰せに忠実に従って七日間エリコの城の周囲を回ると城壁は崩れ落ち(ヨシュア6:1-20)、ヨルダン川に七度身を浸すと不治と思われていたナアマンの皮膚病は癒されました(Ⅱ列王5:10-14)。しかし、信仰の篤い人々でさえ、アブラハムは女奴隷に子どもを作り(創世記16:1-6)、モーセは主を信じず、神聖としないで杖で岩を打ち(民数記20:7-13、申命記32:50,51)、ダビデは部下の妻と姦淫し、しかもその部下を殺してしまうなど(Ⅱサムル11:1-27)、大変な間違いをした例も数多く書かれています。
 新約聖書の中で、選択の自由をとんでもなく間違って使った代表は、イエス様を売ったイスカリオテ・ユダでしょう。ペテロとアンデレ(マタイ4:19)やマタイ(マタイ9:9)は、呼ばれて直ちに主に従ったと書かれています。彼らは従わない自由も持っていましたし、実際従わない自由を行使した人々の方がはるかに多かったのです(マタイ19:21-24、ルカ9:57-62、ヨハネ6:66)。一方、言われた通りに盲目の身で遠いシロアムの池まで行って眼を洗った盲人や(ヨハネ9:6-7)、床を畳んで歩いた中風の人や(2:11-12)、「行きなさい」という単純な命令に従った難治の皮膚病を患っていた人などは癒されました(ルカ17:13)。

 すべての被造物を管理する責任と栄誉は、人類から取り去られてはいません。イエス・キリストを十字架に付ける犠牲を払ってまで、愛と信頼の交わりを継続することを望んでいてくださる創造主は、御自身の姿をお与えになった人類が、ふさわしくない見苦しい生き様をしているのを見て悲しみ、その栄誉と尊厳を取り戻すことを切に望んでおられます(創世記6:5-7、レビ記11:44, 45)。人が与えられた完璧な自由を、正しく使うことを望んでおられるのです(ルカ12:57、エペソ4:22-24、コロサイ3:5-10)。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」(ローマ7:12)であり、イエス様は「律法を成就するために来た」とおっしゃったのです(マタイ5:17)。創造主を主として尊敬し、信頼し、自分もまた愛され自由意志を託された者として造られたことを信じるならば、律法主義的に従うのではなく、喜んで心から従うようになるでしょう。日々の行動の中心に主がいらっしゃることによって、一つ一つの行動が自然に整えられてくるという希望が与えられているのです(Ⅱコリント3:17-18)。


「創世記の記録」へんりー・M・モリス著、宇佐神正海訳