6-12.インマヌエル・主のおそばに

第6章 ノアの洪水

6-12.インマヌエル・主のおそばに

主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」(創世記7:1,4)

 周囲の人々に嘲られても、なお敬慕する主を信じて巨大な箱船造りにいそしみ、宣教しながら過ごした百年余の歳月が、あのように長寿であっても、どんなに重いものであったかを、前項「命じられたとおりに」で少し見ました。二心(ヤコブ1:5-8)を持たず、堅い信仰を持ち、長い長い年月、「すべてを主に委ね」従順であったノアを主がご覧になって、「私の前に正しい」と認められたのです(ヘブル11:7)。
 ノアに箱船を建造するようにと命令を下された時に、主はノアの妻や息子たち夫婦も箱船に入るようにと救いの契約を結ばれました(創世記6:18)。新約聖書においても、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒6:31)と書かれています。この「使徒の働き」のみ言葉によって、「一家で一人が主イエスを信じると、その家族は信じても信じなくても救いに与る」との教えがしばしばなされているように思いますが、いかがなものでしょうか?
 救われるのは、各個人がイエス様を救い主と信じ告白することによるのであり、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ10:9-10)のが、聖書に書かれている救いの原則です。私たちは死後、一人残らずキリストのさばきの座に、各自が一人で立つことが定められているのです(Ⅱコリント5:10、ローマ14:10-12、ヘブル9:27)。

 ノアの家族は信じてはいないけれども自動的に、或いはしぶしぶ家長であるノアに従っただけでしょうか?ノアの家族が箱船に入った記事はあっさりと記述されていますので、自発的に入ったと推測されます。事実、ペテロがノアの家族は揃って積極的に宣教したと書いており(Ⅱペテロ2:5)、家族全員が信仰を持ってもいないのに、ノアの義によって救われたわけではないことが判ります。

 遂に箱船が完成し、船に入るはずの動物もすべて集まりました。世を滅ぼすという主の言葉が最初にあってから百二十年が経っていました。そして今、主は「箱舟に入りなさい」とおっしゃいました。この主の言葉は、英語訳NKJVでは「箱船に入ってきなさい(Come into the ark)」と書かれています。「Come」という言葉は「自分のほうへ来るように」という招きの言葉です(余談ながら、「あなたの所へ行く」という表現に、同じ「Come」を使うのは、いわば「丁寧語・敬語」です。英語には敬語も丁寧語もないというのは誤解です)。
 この”Come”という言葉づかいについて、ヘンリー・モリス氏は著書の中で、この"come"にも「深い意味があります。神は彼らと一緒に箱船におられました。間もなく壊滅的な洪水が荒れ狂おうとしていたにもかかわらず、彼らは主と共にいて安全だったのです」と書かれています。他の英語訳(NIV, TEV, Living Bible)はいずれも、「入って行きなさい(Go into)」と書かれています。
 ちなみに日本語訳はいずれも「入りなさい」で、どちらとも取れる訳語になっています。ともあれ、その後に起こった様々なこと、そして洪水後の主の導きを見ても、主はいつもノアたちと共におられたことは間違いありませんので、この時点において、箱船の外、入口の近くにおられて「入って行きなさい」とおっしゃったとしても、或いはすでに箱船の中におられて「入ってきなさい」と招かれたとしても、本質に大差はないと考えます。
 船に招かれると同時に、主は「いつ」「どのようにして」地上が洪水で覆われるかということを示されました。ノアたちはいつ洪水が来ても大丈夫な物質的備え・精神的備えが出来ていたと考えられますから、箱船生活のための最後の準備や、動物たちを箱船内のしかるべき「住みか」に配置するのに一日か二日もあれば十分だったかも知れません。
 しかし、洪水が起こるのは翌日でも二日後でもなく、七日間の猶予があると主はおっしゃったのです。何故、七日間であるかはよく分かりませんが、人間的な推測をさせて戴きましょう。創造の過程を思い起こすと、七日間という時間がどれ程の重要な意味があったかがよく分かります。創造の各工程が六日間かけて規則正しく整然と行われ、その一日、一日に意味があり、最後の七日目もまた同様に重要な意味を持っていました(「六日間(144時間)の天地創造:創造に六日かけられた理由」)。
 洪水までに置かれた七日間は、ノアの家族の精神的・霊的な最後の準備もあったでしょうが、不信仰者に具体的な日程まで示して最後の招きをするためであったことでしょう。大勢の人々が不信仰を悔い改め、立ち帰るようにと創造主が最後の憐れみ、愛をかけられたと、特に書かれてはいませんが、聖書全体に溢れている想像を絶する主の愛を見るとき、それは必然であると思うのです。

参考文献:「創世記の記録」ヘンリー・モリス著、宇佐神正海訳