創造主に出会って ~第二十七章~

創造主に出会って ~第二十七章~

母の事

 母は、若くして夫に先立たれ、生計を立てるために、特殊部落の保育園に勤め始めました。
働きながら免許を取得したようです。その職場環境からか、差別のある社会に疑問を感じ、共産党に惹かれて行ったようです。そして、長井一男との出会いがあり、再婚しました。母は、非常にストレートな人で、思いを感情表現する人でした。

 私は、信仰を持った後、母に福音の手紙を書き、イエス様に従う決心を伝えたところ、彼女自身、祈って神の居られる事を確かめた後、信仰告白をし、教会生活を始めました。その後の母との関係は、楽になりました。母は、忠実に教会生活し、あらゆる集会に出席し、遂には教会の執事をするようになりました。

 それで、彼女の価値観も聖書的に変えられる事を期待したのですが、それにはあまり変化が見られないで、継父との関係も相変わらずでした。二人は、それぞれが我が道を行く生活をして、それなりにエンジョイしているようでした。

 母は、定年退職してからは、趣味に没頭し、社交ダンス、卓球、コーラス、旅行など・・・生活を楽しんでおりました。

 1995年1月1日に長井の夫が亡くなり、17日に阪神淡路大震災が起きました。
母は、二階に寝ていたのですが、一階部分が崩れて、二階は、路地を隔てた鉄筋建ての家に倒れかかっていました。誰かが母を家の外に連れ出してくれて、怪我はありませんでした。

 母は、パジャマの上に毛布を被り、誰かが履かせてくれた履物を履いて、二駅先の甲子園教会に歩いて行き、そこに保護されておりました。私は、母との連絡のために奔走し、やっと公衆電話で教会と連絡出来て、母の無事を確認しました。
夫の聖一は、食料、水、携帯ガスコンロなど、救援物資を積んで、車で甲子園へと走ってくれました。教会までの通行は、困難がありましたが、救援物資を届ける事が出来ました。そして、当日、母を連れて帰る事が出来ました。

 まだ、牧野本町の教会に住んでおり、狭かったのですが、母との同居を考えました。しかし、母は仮設住宅を申し込んで西宮の仮設に移って行きました。そして、全壊した家の土地が売れたので、その資金で、牧野阪の家を母の名義で買いました。ところが、母は、この家にも住まず、仮設から市営住宅に移ったのです。

 それから、しばらくして、介護保険制度が出来、ケアマネさんや、ヘルパーさんのお世話を受けるようになり、安心しておりましたが、血圧上昇でしばしば救急車を呼ぶ事が多くなりました。

 服薬を確かめてみると、降圧剤がきちんと飲めていない事が分かり、独居の限界を感じて私から同居を切り出すと、今度は、母は喜んで応じました。
母は、同居をとても喜んでくれて、「我が人生終わり良ければ総て良し」と言っておりました。

毎朝の家庭礼拝にも参加し、賛美し、み言葉を読む生活が始まりました。
週3回のデイサービスを楽しみ、家族の団欒を楽しむ生活が続きました。
母は最早、支配的な態度ではなく、私に従うようになりました。
立場逆転!私が保護者になったのです。

 私の失敗と言えば、家庭の中で、彼女の役割を与えなかった事だと思います。
家事が嫌いなので、上げ膳据え膳。彼女を自由にさせてあげる事が良いと思っていたのですが、果たして良かったのか?

 99歳の時に、夜中に転倒して、大腿骨頸部骨折で手術。それから、膀胱結石で手術。又、胃粘膜下腫瘍(GIST)で手術と3つも全身麻酔の手術を受けました。
それでも、無事に生き延びましたが、要介護5で、私一人での介護が無理となり、老健のお世話になりました。

 母は、毎朝、「章子が1分1秒でも早く来てくれますように~」と大声で祈っていたらしく、私が施設に着くと、介護士さんが「テイさん、愛しの章子さんが来はったよ!」と言われるのです。私の名前は施設全員の知るところとなりました。

 朝から夕方まで、母との密着生活が続きました。まるで、母娘のように~。母が甘えん坊の娘になって・・・施設の食事が不味いと言えば、施設の真向かいにある回転寿司に連れ出して食べたり、相撲を見たいと言えば、ビデオ撮りして持って行ったり・・・一緒に、しりとりゲームをしたり、時には、小さな声で歌ったり・・・又、甲子園教会からは、何度か、姉妹たちの訪問を受けました。その時は、張り切って元気で皆さんを安心させていたのですが、だんだん、食欲と、何かをする意欲が衰えて来て・・・昔話をしてくれるのですが、私を姉や妹と間違えたり、孫たちの事も、よく分からなくなっていったようです。

 101歳の誕生日を迎える前に施設でインフルエンザが流行して罹り、それから、体力が落ちました。
いつも、誕生日には、孫たちと曾孫たちが集まってお祝いをするのですが、101歳の時は、施設がインフルエンザのために閉鎖中。それでも、特別に部屋を用意してくださって、お祝いしたのですが、母が疲れたので短時間で済ませました。

 だんだん、食欲不振と呼吸困難を訴えるようになり、食事介助が大変でした。
ある時、「食べたくないのに、食べさせるのは、拷問です!」と言われて、それ以降、食べる事を勧めるのを止めました。「欲しいものは?」と聞くと、「チョコレート」と言うので、私の居る時は、チョコレートだけ食べていました。私が居る間は、車椅子で過ごしました。寝ると呼吸困難があったからです。

 4月に桜の花を見た頃から状態が悪化し、何度も施設から電話がかかるようになりました。母は、生きる意欲を持っていた人でしたが、ある時、母は「天のお父様、もう生きるのが嫌になりました。早く迎えに来てください。」と祈っていました。その祈りに応えるように、それから間もなく最期の時を迎えました。その日の呼吸は、とても静かで楽そうでしたが、浅い呼吸でした。血圧が下がり出してからは、呼吸数が落ちて来て、静かに静かに停止しました。

 その時私は、「おめでとう!」と叫び、天のお父様に感謝の祈りを捧げてから、ナースコールを押しました。101歳と3か月の生涯でした。

【続きます】

濱本 章子 副牧師