創造主に出会って ~第二十四章~

創造主に出会って ~第二十四章~

夫の信仰と死

 ここからは、「濱本聖一想い出の記」に書ききれなかった彼の信仰の在り方について書いてみようと思います。
私が彼に惹かれた部分、それは神を求める姿勢でした。教会形成についての学び、弟子訓練の学びなどの必要性は認めても、それについて行けなかったのは、彼自身、神の僕になり得ていないという意識があったからです。
神の僕としての生き方は、み言葉と祈りに集中する事だと分かっていても、出来ない自分に葛藤を感じていたようです。

 トラクト配布や数々の資料の印刷や出版に没頭したのも、自分がやるべき事をやっていない申し訳けの作業だったようです。それは、私も同じで、病院で働いていた時、体は疲れていたのですが充実感があり、自分も何か役に立っているという満足感があったのです。それで、本来のやるべき事、祈りやみ言葉がないがしろになっておりました。

 彼は毎朝、大声で祈る習慣がありましたから、嫌でもその内容が聞こえてきて彼の苦悩を知る事が出来ました。ロマ書7章のパウロの葛藤をずっと抱えていたようです。

 その葛藤から解かれたのは、キングダム・フェロシップの唐沢師のメセージを学んだ時からです。霊・魂・体の関係を彼の専門分野である精神病理から解き明かされた時に、納得がいったようです。パウロは、「自分がしたくない事を行っているのは、私ではなく、私のうちに住みついている罪だ」(ローマ書)と言っています。本当の私は救われた霊であり、私と「罪」とを分離しているのです。体がある限り罪が残っているという原理です。しかし、体から解放されたら(肉体の死、又は携挙)、本当の私が残るのです。

 では、イエス様の十字架は、私たちの罪を取り除いてくださったのでは?という疑問が残りますが、イエス様が取り除いてくださったのは、私たちの行った罪々(思いも含む)なのです。私たちの行ったどんな罪々もイエス様の血潮で贖われているのです。日本語では、「罪」とだけ書かれていますが、本当は、複数の罪々なので、体に住みついている単数の罪は残るのです。ですから、救われても罪を犯すという原理です。

 神様との交わりを絶たれて、霊が死んでいる時、私たちは、魂の思いで生きてゆくしかありませんでした。それは、人間中心の罪の思いです。ヒューマニズムというと、良いイメージがあるのですが、神を無視した生き方です。これが「肉」の生き方です。

 魂とは、知性・感情・意志という自分を意識する分野です。即ち自我の座です。勿論、意識下にある深層心理の分野もありますが・・・
霊が再生しても、古い生き方(肉の生き方)の習慣が残っているので、悩めるクリスチャンが多いのですが、夫は正にそれでした。しかし、霊の私は、「罪」ではない事が分かる時、本当の自分のアイデンティティを確立する事が出来るのです。

 それで、夫は、霊の自分を確立のための告白文などを作成して配布しておりました。「7つの祝福の証人」は、その一つです。魂の中に罪があるけれども、霊の中には聖霊が住んでおられるので聖い。これらを分離する事によって、ますます霊の救いの確かさと素晴らしさを体験する事が出来るとメッセージしておりました。「肉」に対して、自分は責任は無い。

 「肉」が出ても当たり前。関係ない。そして、聖霊によって歩む時、「肉」は、沈静化されてゆく・・・というのです。それを彼は、自ら実証してくれました。
特に、病を得てから苛立っている夫を見た事がありません。私に対しても常に優しくしてくれました。

 病を得た時、夫は驚くほど平安でした。霊の救いを確信していたからです。元気でいた時でさえ、自分は、70歳までは生きないと言っておりました。私は、冗談にしか思えませんでしたが。実際に召されたのは、71歳でした。彼は、長尾の会堂の内装工事のために、一日も休まずに働き、牧師の務めもこなし、早朝からの大声の祈りも欠かした事がありませんでした。体重は減りましたが、疲れたと言う事もなく元気一杯でした。それでも会堂が出来た時に、10年計画を立てました。
 自分の命は、そこまで・と知っていたかのように・・・そして、10年後に天に帰りました。

 そして、発病後に何度も証していたように、脳腫瘍の手術後、突然「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とみ言葉が臨み、驚くような喜びの中に入れられ、その後召されるまで、決してその喜びが消える事がありませんでした。

 肉体的にも苦しんでいる様子は無かったのですが、心は常に天にありました。
身体の自由を奪われてからは、さらに天を望むようになりました。

 私自身、どのような最期が待っているのか分かりませんが、何があっても、彼のような平安を持ちたいと思います。

【続きます】

濱本 章子 副牧師