創造主に出会って ~最終章~

創造主に出会って ~最終章~

終わりに

 今までの人生を振り返って、ただ、恵によって導かれて来た事を心から感謝しています。
私はいつも、自分のなすべき事を成していないという罪責感を抱えて生きてきました。

 ですから、せめて晩年には、有終の美を飾りたいという願いがあったのですが、しかし今、それを捨てました。
「主は私の羊飼い 私には乏しいことがありません。」主が私の羊飼い。
それだけで十分という思いです。

 勿論、この喜びを分かち合いたいと思って伝えても、伝わらない悲しみがあります。
イエス様の救いを信じない人々の永遠を思うと、心が苦しくなります。では、どうすれば良いのか?と長年、苦闘してきました。実が無い事に失望してきました。
しかし、救いは、主にあります。そして、私が出来る事は、執り成しの祈りです。

 早天祈祷もしました。徹夜祈祷もしました。断食もしました。でも、祈ったという実感は、無かったのです。形では、祈っていても、心がついていかない事が多かったからです。
いつも、祈らねば・・・・という強迫観念に囚われながら、祈れない状態に悩んでいました。

 しかし、今、祈らねば・・・という思いも捨てました。何故なら私の霊は、絶えず主を求めて祈っているからです。

 ブラザー・ローレンスの手記を読んで、いつも、臨在意識の中で生活することが可能だと知りました。どんな時にも、主に心を向ける事が主との交わりであり祈りなのです。

 肉では、祈る事が出来ませんが、霊は、絶えず祈っているからです。
又、祈りは、私の願いを聞いて頂く事が中心ではなく、「御心が天になる如く、地にもなさせたまえ」とあるように、神の御心が地上になるための道具なのだという事が分かると、目先の結果を見なくても、祈りを通して主が働いてくださる事を信じ、結果を主に委ねるようになりました。

 これからの余生を、一瞬一瞬、主の臨在意識の中で、神を愛する事と人を愛する事に焦点を合わせて生きてゆきたいと願っています。

 私の記録の中で、おかしい?と思われるところも多々あると思いますが、あくまでも個人的な主観的な証なので、間違いも沢山あると思います。どうか、ご容赦ください。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
 神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」伝道者の書3章11節

【了】

濱本 章子 副牧師