創造主に出会って ~第二十二章~

創造主に出会って ~第二十二章~

義兄の事

 義兄は、義姉が亡くなった後に再婚し、BFP(ブリジス フォー ピース)の働きが与えられて、喜んでその働きに携わっておりました。主の選びの民であるイスラエルに仕える事は、夫妻の生き甲斐にもなっていたようです。そして、関西にもBFPの支部を立て上げました。私たちも、義兄からその働きを紹介され、教会を配送作業の拠点として、支援する人々と共に奉仕させて頂きました。ところが、しばしば体調不良に陥ったようですが、この事は、BFPに対するサタンの攻撃だと言って、病院には行かずに祈りで戦っておりました。

 しかし、症状の悪化のために近くの病院に入院しましたが、症状は改善せず、嘔吐が続いていると聞いたために、転院の相談のために病院に行ってみると、義兄は、憔悴している様子。
主治医に会って、状態を聞いてみると、血液検査の結果、腎機能低下のため、透析が必要との事。すぐに、透析が出来る病院に紹介され、転院しました。ところが、そこで聞かされた病名に驚きました。十二指腸癌。しかも、かなり進行しているため、通過障害が起こっているので、栄養補給のために胃瘻造設を勧められました。そこで胃瘻を造り、栄養補給は出来るものの、痛みに苦しんだので、緩和医療を求めて、淀川キリスト教病院に走りました。

 紹介状とレントゲンを見た医師は、異例の早さで入院を許可してくださいました。
ホスピスに入るとすぐに、緩和処置がなされ、痛みから解放されて、元気を回復。
義兄は、「癒されました!」と喜んでいました。
そして、教会の兄弟の送迎の助けを受けて、喜んで礼拝にも出席しておりました。
義兄夫妻は、ひたすら癒しを信じて祈っていたようです。

 ある時、癒しの集会があり、出かけました。伝道者は、彼の癒しを宣言し、それに応えるように、車椅子から降りて、元気で歩き出しました。参加者の拍手と喜びの中で、本当に奇跡が起きたかのように思いましたが、私はとても不安でした。
義兄夫妻は、喜び勇んで帰って行きましたが、その夜からが大変でした。急激に体力が無くなっていったのです。

 病院からは、個室に移る事を勧められ、24時間の付き添いを始めました。妻のE姉は、勤めているため、夜付き添い、私が朝からE姉の帰るまで付き添う事になりました。
義兄は、その頃からチャプレンの面会を拒否、そして、兄姉の面会も拒否するようになり、鬱状態に落ち込んで行きました。

 そんな時、義兄は、「僕は神様に捨てられた。天国には行けない。」と言ったので、本当に驚き、霊の救いについて、初歩の初歩から繰り返し説明する日々でした。
私の祈りは、ただ、義兄の霊の目が開かれて、救われている事を知って平安を得て欲しい・・それだけでした。体の苦痛は、本当によくコントロールされていて、少し眠りたいと言えば、その通りに薬が調整されて、きちんと目覚めて、確かな意識のある状態にして頂けました。ただ、倦怠感はあったので、腕などは、マッサージをしましたが、脚のためにはマッサージ器があって、それを喜んでおりました。

 そんな辛い霊的な暗黒を通り抜けて、霊に平安が与えられる時が来ました。「イエス様は、全ての罪を赦してくださった。」と天国の確かな希望が与えられたのです。それからは、「まだかな?」と天を指さして、その時を待つようになったのです。
そして、最期の日がやってきました。

 弟の聖一は、この兄の死に対して責任を感じていたように思います。義兄は、69歳で逝ったのですが、いつの頃からか、「僕は70歳までは生きないように思う。」と言い始めたのです。私は、冗談と思って相手にしなかったのですが、彼自身、69歳で病を得た時にも、同じ事を言うので、「何故、そう思うの?」と聞くと、「兄が69歳で死んだから、僕は、それ以上は生きない。」と答えました。実際は、71歳の誕生日を迎える事が出来たのですが・・・
本人は、永遠のいのちの喜びの中で、生きても死んでも主と共に・・という一切のこだわりから解放された幸いな日々を過ごしたのです。

 私自身は、癒しを経験しておりますし、祈って癒される事は、信じておりましたが、祈っても癒されない事も多く、この問題に関していつも心が揺らいでおりました。
しかし、私たちの救いが永遠のものであるという事は、完全な癒しは、復活の時に約束されているわけですから、この地での癒しは、天国の前味にしか過ぎない。
しかし、前味を味わう事は、さらに天国を慕い求める事になるので、素晴らしい事です。

【続きます】

濱本 章子 副牧師