創造主に出会って ~第二十九章~

創造主に出会って ~第二十九章~

カウンセリングの学び

 恵の中で生かされて、自分自身は平穏に暮らしているのですが、まだ使命を果たしていないのではないか?という思いと、悩みを抱えている人に寄り添いたいという願いが起こされ、カウンセラー養成講座の説明会に出てみました。

 「京阪総合カウンセリング」というNPOの代表の方が御自身の経歴を話してくださいました。事業に失敗し、自殺未遂を図り、助けられて退院の時、看護師さんから言われた言葉が心に残ったそうです。「貴方は助けられた命だから今後は、自分勝手な事をしてはいけない。又、死にたくなったら、必ず電話して来るように。」と。その後、その代表は心療内科で治療し、自ら心理学を学び、「自分」を理解する事が出来た事により、生きる希望が与えられたので、多くの人々にこの学びを提供したいと思い、NPOを立ち上げたと言っておられました。

 その話に感動を受け、私も学ぶ事にしました。小グループ制で私のクラスは、20代から50代がクラスメイト9名でした。講師は、元高校教師の女性。分かり易い語り口にいつも魅せられて、楽しく学ぶ事が出来ています。伝道活動は禁止ですが、自分の事を語る事は出来るので、証の機会も与えられています。私以外の人々は皆、家族関係の悩みを抱えており、それが動機となって学ぶ事にしたようです。
私の年齢に皆さん驚いておられるようですが、私自身は、若返った気持ちで学びを楽しんでおります。

 一年目は、心理学の基礎講座。テーマは、「人間の尊厳」自分らしく生きる事を目標にしています。心理学の基礎を築いたのは、有名なフロイト。当時、精神病患者は、悪霊つきとして、人格を認められず、隔離されていた時代です。彼は、徹底して個人尊重を実践し、患者の言葉に傾聴したそうです。彼自身、複雑な家庭に育ち、多くの悩みを抱えていたようです。

 人間とは何か?を探っていくうちに、人間の魂の意識出来ている部分が僅かであり、問題は、無意識の領域にある事を発見したのです。そして、精神分析を通して、無意識にあるものを意識に出す事によって、問題解決を図ったのです。
人間の意識化されたものは、氷山の一角のようなもので、90%が無意識に埋もれているのです。これが、コンプレックス(感情観念複合体)と呼ばれるものです。深層心理の中に深く埋もれているものは、しばしば受け入れがたいものです。

 「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」ガラテヤ5章19~21節
これは、肉の行いとして表面化されたものですが、実は、表面に現れる以前に、無意識の中にあるものなのです。

 生まれてから一度も心に傷を受けた事のない人はいません。しかし、傷を負ったまま生きていくのが辛いので、防衛機制が働いて無意識の中に逃げ込みます。しかし、意識に上らないだけで、無意識の世界では、恨み・つらみ・憎しみ・嫉妬・劣等感などが渦巻いているのです。心の病に罹る人は、防衛機制に破綻してしまった人のようです。防衛機制とは、心のやりくりです。経済でも、やりくり上手な人は良いのですが、下手だとやって行けなくなるのと同様です。

 では、カウンセリングが何故、心の悩みや病に有効なのでしょうか?
人間は、生まれながらにして罪を抱えて生きているので、多くの人々は、罪責感に苦しんでいます。しかし、それも無意識である事が多いのです。

 クラスメイトの人々の心の葛藤の中にも、罪責感が見られますが、それを罪とは言いません。
カウンセリングは、決して相手の良し悪しの判断(ジャッジ)をしません。
クライエント(相談者)の人格を尊重し、あるがままのその人を受容し、共感するのです。
又、傾聴と同時に、再陳述ということをします。相手の言った言葉を繰り返すのです。
そうしてもらっているうちに相談者自身が自分の問題点に気づきが与えられるのです。

 それは、受容されている、認められているという安心感の中で、心を開いていくうちに問題点が明確になって行くことで、無意識が意識化され、それを認めると解決が見えて来ます。
無意識にあるものを認める事は、悔い改めに通じます。
信仰においては、聖霊が私たちの心を探り、聖霊の光に照らされると悔い改めが起こり、聖められるのと似ています。

 私はこの学びを通して、今まで如何に自分の考えを人に押し付けて来たかを悟りました。それによって、多くの人に心の傷を与えてしまったのではないでしょうか。
私が学ばなければならないのは、クライエント(相談者)主体のカウンセリングの方法です。

 人々の心が開かれれば、宣教の扉が開かれると思います。
今、基礎の学びを終えてテストを受けたところ、高い評価を頂きました。しかし、まだほんの入口にしか過ぎません。研修生にはならないのですが、学びは続けるつもりです。

もっともっと、人々の心に寄り添えるようになりたいのです。

【続きます】

濱本 章子 副牧師