創造主に出会って ~第十三章~

創造主に出会って ~第十三章~

結婚

 私たちは、神学校卒業後すぐに結婚しました。そうそう、花婿の名前は濱本聖一と言います。
赴任先は、名古屋の藤が丘。夫の所属するメノナイト教団が私たちのために賃貸のアパートを用意してくださいました。
結婚後、山口県に新婚旅行に出かけました。この旅行は義兄が用意してくれました。

 ところが、私が発熱して、翌日は旅館の中で過ごす事になりました。ちょうどその時、よど号ハイジャック事件が起こり、ハラハラドキドキしながらテレビを見ておりました。
その飛行機に、日野原重明先生が搭乗しておられたのですね。その後の先生の生き方を変えた出来事だったようです。
その後、秋芳洞などを見て回ったのですが、洞窟が寒かったという印象しか残っていません。

 藤が丘では、先にバーテル宣教師が自宅を開放して開拓を始めており、信徒は一組のカップルのみでした。
英会話教室には、数名集まっていましたが、信仰を表明される方はおられなかったようです。
私たちは、個別訪問などをして、求道者を集めようとしましたが実りがありませんでした。

 しばらくして、同じ藤が丘で一軒家を借りて、二階で生活し、階下を集会所としました。
そこで、日曜日の礼拝、水曜日の祈祷会、宣教師による英語クラスが始まりました。

 私たちは、信仰の一致はあったのですが、実生活では、困難がありました。側に居るだけで良かったはずの私に対して注文の多い事、多い事。約束が違うと争いになりました。
夫は、女性が家をきちんと管理するのが当然と思っていた夫は、私のだらしなさに我慢がならないようでした。しかし、経済は教団から給料を頂いておりました。夫は、その中から自分の小遣い(礼拝献金を含む)を除いた全てを私に任せてくれました。

 子供は、無しの約束も又、破られる事態になりました。
強烈な吐き気に襲われる事から妊娠が発覚したのです。夫は、とても心配してくれて、私が何も出来ない状態であることを許してくれました。
私は、命は主のもの・・という信仰がありましたから、命を大切にしてくれると思われるカトリック系の病院に行きました。すると、腎機能低下を指摘され、命の選択を迫られました。もちろん、命を選択しました。

 私の悪阻は酷く、ほとんど食べられないような状態が続き、体重減少、貧血などがあったのですが、子供は順調に育っていました。
7か月目に入ってもまだ、気分の悪さが続いておりましたが、ある時、近くの一麦教会に、医師で牧師で、癒しの伝道者である井上哲夫先生が来られた時、夫は、私のために癒しの祈りを要請しました。その方は、私の頭に手を置いて祈ってくださったのですが、何も特別な事は起こりませんでした。

 ところが、その後、体調が良くなったのです。又、体重も増え始めました。それでも、私の体重増加は、いつもの体重+5㎏で、他の人々は、私の妊娠に気づかなかったようです。(その時、母子手帳に残された記録によりますと、出産直前の腹囲は、今よりも少なかったのです。)
定期健診でも、データーの改善が見られました。帝王切開で早期出産になると思われていたのに、それも必要がなくなりました。

 体調が良くなった頃、伝道集会の講師として、奥山先生が来てくださいました。
その時は元気で接待も出来ました。私は長い間、悪阻のために賛美出来なかったのですが、その時は、思い切り賛美出来た事を思い出します。

 そして、ちょうど予定日に男児が誕生しました。しかも、体重3600g!
私は、母乳で育てる事にこだわったのですが、母乳不足で子供の体重は増えませんでした。
それでも、夜もよく寝て、泣かない子でした。ミルクを与えようとしたのですが、子供がミルクを拒否。そのため、早期の離乳を色々試し、それが功を奏して、体重が増加!
巨大ベビーを連れ歩く大変さを経験しましたが、母となれた喜びに満たされていました。
しかも、おとなしい育てやすい子供でした。

 私は、癒しの信仰を持つようになり、その後、体調不良はことごとく祈って癒しを受けるようになりました。
その後、第二子も、第三子も与えられました。三人の子供は、小児科のお世話にならずに健康に成長しました。イエスの御名によって・・・

【続きます】

濱本 章子 副牧師