創造主に出会って ~第二章~

創造主に出会って ~第二章~

家族の事(母の事 祖母の事 継父の事)

私の実父が逝った時、父の母は健在でした。母は、生計を立てるために働いておりましたので、祖母は、家事と私の世話をしてくれました。食物が乏しい時代だったので、自分の食べる分を私に食べさせ、どんな時にも私に優しく接してくれました。

祖母は、昭和天皇の弟である秩父宮付き看護婦をしていたそうで、その事を誇りとしていたようです。几帳面で綺麗好きな祖母と家事の苦手な母との関係は、難しかったようで、その不満を隣の人に話しているのを聞いて、私は母に対して批判的な思いを持つようになりました。

私が小学年生の時に、祖母は自宅で亡くなりました。その晩もいつものように、私は祖母と同じ布団で寝ていたのですが、目覚めると私は離れた所に寝かされておりました。

祖母が亡くなった時、本人が着ていた寝間着以外の洗濯物は無く、部屋は整頓されておりました。毎晩、私は祖母の宮中での出来事を聞きながら眠りについていたのですが・・・

祖母が亡くなって以降、私の生活は一変し、緊張を強いられる日々となりました。今までしたことのない家事が私の仕事になりました。掃除、洗濯(手洗い)、お米を洗う事など、何もかも重荷でした。そして、きちんと出来ないので、いつも叱られてばかり…

二年生になって、母が再婚することになり、引っ越ししました。継父となった人は、三高を出て東大原子物理学科に入ったほどの秀才でしたが、共産党思想に傾倒し、投獄生活を味わい、大学を卒業することなく、定職にも就かず、共産党の活動に専念しておりました。親から受け継いだ不動産を売って生計を立てておりましたが、母と結婚した頃にはもう売る物件も無く、母が働いて生計を立てる事になりました。そのため、二人の間で争いが絶えず、それが本当に苦痛でした。

継父は、私に対しては優しかったのですが、何とかして共産党思想を教え込もうと必死でした。そういう訳で、彼の説明に納得した私は、「スターリンこそ我が命」と歌いながら、日を送っておりました。後に、「イエス様こそ我が命」と歌うようになるとは..

しかし、私がクリスチャンになった時、経済的だけではなく、心も母から自立しようと思い、親子の縁を切られても良いという覚悟で、福音を伝える手紙を書きました。その中で、「お母さんもこの福音を信じなければ地獄に行く・・・」という事を書いた記憶があります。

その時、奥山先生から紹介を受けた改革派教会の住所、電話番号も添えたと思います。

驚いたことに、母は、神様がいるかどうか試すために、「神様がいるなら、タバコを止めさせてください。」と祈ったそうです。すると、今までどうしても止められなかったのに、苦痛なくあっさりと止められて、「神様はいる。」と確信した母は、紹介された教会に飛んで行き、すぐに信仰告白をして洗礼を受けました。

私は、驚くと共に不思議な神様の御業を感じました。その後母は、忠実に教会生活を続けました。

私にとっては嬉しい事も、継父にとってはショックな出来事で、二人の関係はさらに悪化しました。又、彼は、「森の集会」という所に日曜日に通い出しました。何とそこは、東大哲学科卒の牧師の息子が導く、「イエスはキリストではない」事を宣伝する集会だったのです。

その集会から出された本を何冊も私にくれましたが、難しくてさっぱり理解出来ませんでした。

【続きます】

濱本 章子 副牧師