6-8.目を離されない創造主

第6章 ノアの洪水

6-8.目を離されない創造主

これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない(創世記6:9-13, 17)。

 聖書、特に旧約聖書に書かれている歴史は、それが重要なものであればあるほど、創造主を信じない大部分の人々は単なる伝説、「桃太郎」や「浦島太郎」と同様に「子どものおとぎ話に過ぎない」と、嘲笑の対象と見なしています。
斉一論・進化論が骨髄まで染みこんだ今の世界では、このような人為的で巧妙な霊魂の操作に、イエス・キリストを信じる人々でさえ惑わされていることを、六日間(144時間)の天地創造に関する項目で取り上げました(「夕と朝によって刻まれた1日」、「創造の一日は24時間」、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」、 「創造に六日かけられた理由」など)。    

 仮に、大洪水は歴史ではなくおとぎ話で、ノアは単なる伝説上の人物であるとすると、真面目に取り扱う必要はなく、各人の気の向くままに自由に脚色したって一向に構わないでしょう。
しかし、そのようにすることは、聖書を真面目に受け取らず、その権威を甚だしく冒涜することなのです。
例えば、「局地的な洪水はあったかも知れないが、地球全体を覆い尽くす洪水はなかった」、「そのような大量の水がどこからか生じた科学的根拠は無い」、「単に人間を地上から消し去られたに過ぎない」、「あのような箱船は作られなかった」、「全種類の動物、特に大きな動物や、或いは地球上の遠い地域、北極や南極に住む動物たちが箱船に入れるはずはなかった」、「ノアは実在の人物ではない」、等々と、自分の勝手気儘に聖書の記述の骨子を否定したり、部分的に変更したりするのです。

 しかし、この時代より後に書かれた聖書記事は、この大洪水を歴史上の事実であると真面目に受け取り、ノアは確かに歴史上の重要な人物であったと理解して書かれています。イザヤは、主が「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓った」とおっしゃったと記しています(イザヤ54:9)。エゼキエルは、歴史上最も正しい三人の人としてノアとダニエルとヨブを挙げています(エゼキエル14:14, 20)。
又、歴代誌(Ⅰ歴1:4)の記者も、福音書を書いたルカ(ルカ3:36)も、キリストに至る正式な系図の中にノアを入れています。

 使徒ペテロは、「義を宣べ伝えたノアたち」(Ⅱペテロ2:5)、「わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われ」たが(Ⅰペテロ3:20)、それ以外の「当時の世界は、・・・洪水におおわれて滅びました」(Ⅰペテロ3:6)と書いています。また、ヘブル書には「ノアは、・・恐れかしこんで、・・箱舟を造り、・・信仰による義を相続する者と」(ヘブル11:7)なったとも書かれています(ヘブル書の記者については、パウロであるか、アポロ[使徒18:24-28, Ⅰコリント1:12, 3:4-6]であるか、その他の誰かであるのか、意見が分かれていますが、それは問題ではありません)。
そして何よりも重要なことは、イエス・キリストが、ご自身の再臨に関する弟子たちの質問に答えて、ノアの日の大洪水のこと、箱船のことを実際に起こったこととして話しておられることです(マタイ24:37-39、ルカ17:26, 27)。

 創造主は、人間に歩むべき道を教えられましたが、それに従わないで「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって」(イザヤ53:6)突き進んで堕落し、自ら破滅の道を選んだので、暴虐に満ちた世界になりました。
人がこのように創造主のことを忘れ果てていても、主はなおも地上に眼差しを注いでおられたのです。現在、世界はまさしくノアの日のようではないでしょうか。
人間は主のみ姿を映し出すべきものとして造られたことを忘れ果て、あたかも主が生きておられず、何もご存じないかの如くにおごり高ぶっています。創造主がこの地球のことを、分けても人間のことを心にかけておられないかの如くに傲慢になっています。

 キリスト・イエスがかつてエルサレムのために涙された(ルカ19:41-44)のと同じように、大きな悲しみを創造主に与え続けていることさえ気にかけないで人々は生きています。小さな「雀の一羽でも、神の御前には忘れられず・・頭の毛さえも、みな数えられて」(ルカ12:6, 7)おり、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」(ヘブル4:13)。「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる」(箴言5:21)のは、この大洪水の日も、今も全く変わりません。

参考文献:「創世記の記録」ヘンリー・モリス著、宇佐神正海訳