6-28.ノアの捧げたいけにえとキリストの血潮

第6章 ノアの洪水

6-28.ノアの捧げたいけにえとキリストの血潮

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです(ヘブル書10:1, 4, 10, 19, 20、新共同訳)。

 全知全能であり唯一の絶対者である主が天と地を創造し、ご自身のみ姿に人をお造りになったこと、そして自分が被造物に過ぎないことを肝に銘じて知る前には、旧約聖書の様々な記事がつまずきの石になることがあります。
主への供え物として数多くの動物の血が流されたこともその一つの出来事でしょう。捧げ物の最初はアダムの二人の息子の記事で、カインは地の作物を、アベルは羊の初子をそれぞれ主の御許に携えてきたと記録されています(創4:3-5)。
以後、アブラハム(12:7, 8, 13:4, 18)、イサク(26:25)、ヤコブ(31:54, 33:20, 35:1, 35:7, 46:1)は自発的に祭壇を築き、いけにえを捧げて主を礼拝しています。モーセ以降、レビ記(1:1-7:38)、民数記(6, 7, 9, 15, 28, 29章)、申命記(12, 16章)には、イスラエルの民が守るべき法律(律法)、束縛として詳細に設定されました。


 ノアが捧げた全焼のいけにえ(焼き尽くす捧げ物、新共同訳)とは、いけにえの動物を文字通り完全に焼き尽くして煙にしてしまうことです。
そして立ち昇るこうばしい香りが主へのなだめの香り・和解の捧げ物となります。全焼のいけにえという言葉は、アブラハムがイサクを捧げる出来事で7回(創22:2-13)、モーセが様々な場面で捧げた記事として16回記録されています(出24:5, 29:18, 32:6, 40:29)。新改訳と新共同訳でいけにえ、全焼のいけにえ、焼き尽くす捧げ物という言葉が使われている回数を表にまとめました。記載はモーセ五書に圧倒的に多く、特にレビ記、民数記に集中しているのが分かります。
歴史書、預言書にも多く記載されています。創造主との和解のため、犯したあやまちの贖いのため、感謝・誓願のために動物が殺され、血が流されて主に捧げられました。映画・「十戒」によってクリスチャンでなくても知っているように、動物の血を門口に塗りたくることによって主の裁きがその門を通り過ぎました。

 このような夥しい動物の血を流していけにえを捧げる行為を、「残忍な動物殺戮が繰り返された」と読む人々がいます。
しかし現在私たちは、主に捧げるのではなく自分たちの胃袋を満たすために、多くの動物を殺戮していることの残忍さをどう解釈するのでしょう。私たちを造り、愛してくださっている創造主を認めず、背くことがどれ程大きな罪であるかを、昔のいけにえの儀式を知って私たちは再確認する必要があるでしょう。

 しかしながら、どれだけ動物の血を流してささげ物をしても、或いは人間に思いつく限りの善行に励もうとも、罪を拭い去ることはできません。それどころか、蟻地獄にはまり込んだ虫けらがもがけばもがくほど深みに落ち込むように、人間的判断で優れたこと、愛の行為を行っても、創造主を仰ぎ見ないで自分の力で罪を拭おうとする行為そのものが、とんでもなく主を冒涜する背信行為なのです。

 あらゆることが罪を拭うためには何の効力もないからこそ、罪の全くない神の子イエス・キリストが地上に降りてこられて、ご自身がいけにえとなる必要があったのです。主がただ一度十字架の苦しみ・辱めを堪え忍び、体を裂き、血を流してくださることによって、全ての人々の罪が拭い去られたのです。キリストの十字架によって旧約時代に延々と続いた動物のいけにえの儀式は完了したのです。

 「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(マルコ12:33)とイエス様はおっしゃいました。イエス・キリストによって罪が拭われたので、その恵みを素直にただで戴いた者は十字架の影に隠れて、罪のない者、清い者、正しい者と見なされるのです。恵みの時代にはいけにえは、「賛美のいけにえ」(ヘブル13:15)、「霊のいけにえ」(1ペテロ2:5)であって、パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と言っています。