6-32.肉食の許可

第6章 ノアの洪水

6-32.肉食の許可

すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない(創世記9:3, 4、口語訳)。

 全宇宙を造り統率しておられる創造主は、裁きの洪水の後、改めて地球と地上の植物・動物の管理者として人を任命なさいましたが、それと同時に驚くべき許可をお与えになりました。
創造の時点で、人とすべての動物に食物として与えられたものは緑の草であり、いのちを持っている動物を食物として与えるお考えはありませんでした(創世記1:29,30)。
人間と他の動物との間に拭いがたい敵対関係を置くことを許可されたのは、一体どのようなお考えでなされたのでしょうか。

 天地万物の創造後、どれくらいの時間経過の後に罪が入ったのか、誰も知りません。
アダムとエバがエデンの園で主に忠実に従って生きていた楽しい日々の記載が聖書には無いので、創造されてすぐ、第8日目か9日目に早くも蛇のそそのかしに引っかかったかのような見解が一般的ではないでしょうか。

 しかし、実際は「8日目以降、カインが生まれる以前の間のいつか」と理解する以外に時間の特定は出来ませんし、カインがいつ生まれたかは不明です。アダムとエバがエデンの園で主との親しい交わりの中にあって、実に素晴らしい数年間、十数年間を過ごしたと想像してみるのも楽しい気がします。
そして、二人にとっても、またトラやライオンを含めたすべての動物にとっても、「見て美しく、食べるに良いすべての木を」(創世2:9)、完璧な栄養を備えた食物を主はお与えになったのです。

 しかし、人は恵みと祝福によって与えられた自由を取り違えて、主に背きました。本来は老化も死も組み込まれていなかった、或いは少なくとも発現しない機構があった遺伝子において、罪が入ったことで死の機能が働くようなスイッチが発動し始めました。
すなわち、いのち・遺伝子の本質的な変革が起こったのです。それでもその変化は主の憐れみにより徐々にしか起こらなかったことは聖書の記録に明らかです。「必ず死ぬ」と言われたアダムは、肉体的にはすぐには死なず、創造されてから実に930年、驚くほどの年月を恵みにより生かされてからやっと死にました。

 洪水の裁きが下されなければならないほど「神の前に堕落し、不法に満ちていた」(創世6:11)人間の世界、そして動物の世界でも、この時点ですでに肉食が始まっていたのかもしれません。
人々が主の命令に背いて、いつ、何故肉食を始めたのかは分かりません。
暴虐に溢れた世界で、殺した動物をたまたま食べてみたら美味しく、しかも元気いっぱいになって草よりも良い食べ物であると人は考えたかも知れません。
植物も造られた時の完璧な食物ではなくなっていたでしょうから、人にとって、また或る種の動物にとって草食では不十分であるという事態が生じていたのかもしれません。

 洪水によって、暴虐に満ち満ちた社会は完全に滅びました。
ノアたち、正しい人は肉食をしていなかったでしょうから、地を水で拭い去った後に、主は肉食の許可をお与えにならなくても良かったのではないかとも思われます。
しかし、事実は肉食を許可されたのです。主がそのようにお決めになったのですから、それには重要な意味があったに違いありません。

 洪水後、非常に厳しい地上の自然環境の中で生物は生きていかなければなりませんでした。
植物の生育は悪かったでしょうし、またその栄誉分としての質においても、洪水以前に倍加して、ますます人に必要な栄養分を十分には備えていない状態になったのでしょう。そのような環境下であったので肉食の許可を与え、基本的には現在私たちが見ている食物連鎖を容認することで、必要な栄養を充足させることになさったのかもしれません。

 また、仲良く共存するはずであった動物を食用にすることによって、人と動物との間の絶対的な隔たり・支配関係を改めて明確にされました。
昨今、人と動物との関係は、両極端が横行しています。動物をどう扱っても良いと考えて、得手勝手に取り扱い、虐待さえする人々と、他方、動物愛護の名の下に人間と同格に置いて混乱を招いている人々がいます。
捕鯨に関する政治的に微妙な駆け引きの中で、「鯨を食べてはかわいそう」という感傷的な大声が人々を煽り立てる一方で、その同じ人々が牛や豚やその他諸々の肉食をするという矛盾だらけの論理展開が通用する、実に不思議な世界になってしまいました。

 食物に関する律法が定められた時、清い動物と汚れた動物が区別されて食べて良いものと食べてはいけないものが決められましたが、この時点では食物としての動物に関する制約は書かれていません。
箱船に入るときに「清い獣と清くない獣」(創世 7:2, 8)が区別されて述べられ、洪水後「清い獣と、清い鳥」(創世8:20)を祭壇に捧げていますが、これは主に捧げる供え物として「清い」という認識であって、食物規定ではありません。
主に捧げる供え物は常に砕かれた、悔いた心、清い捧げものでなければならないのです(ローマ12:1、詩篇51:17)。

「その命である血のままで、食べてはならない」という制約は重要な意味を持っていますので、次回この点を学びたいと思います。