6-27.真っ先にしたこと

第6章 ノアの洪水

6-27.真っ先にしたこと

そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。(創世記8:18-20)

 洪水が引いた後の地上は荒れ果ててはいましたが(「完璧な地球の壊滅」及び「荒涼たる世界」を参照)、ノアたちは狭い箱船から出て大地を踏みしめ、広い空間にその身を置くことが出来て解放を感じることができました。
地面の汚らしさはともかくとして、多分青空が見え、太陽が照っていたでしょう。このような状況下、洪水を生き延びた喜びをどのように噛みしめたでしょうか?泥水に飲み込まれて死んでしまった愛する者たちを思い、悲しみに心が閉ざされたでしょうか?箱船に積み込んだものを船外に運び出し、どのように整理・整頓したらいいのだろうか、これからどのようにして生きていけばいいのかと、途方に暮れてしまったでしょうか?とにかくも生きていくために、畑を耕す方策を考え、住む家を建て、井戸を掘らなければと、生活の諸々に心が煩わされたでしょうか?

 私たちも日常生活においてさえ、まして様々な天災・人災の後は、生活の不安や煩いに心が忙殺されるのがごく自然ではないでしょうか?災害を無事にくぐり抜けた後は感謝の讃美・礼拝を捧げるのは容易でしょう。
しかし、大惨事の爪痕が手の付けられない無惨な状態で目の前に広がっているとき、茫然自失してしまうのに不思議はないでしょう。
ところが、聖書には「箱船から出てきた」と書かれたそのすぐ後に、「ノアは、主のために祭壇を築き、・・・」と、主に感謝と和解のための生け贄を捧げ、礼拝したことが極めてあっさり記載されています。ノアが文字通り主と共に歩んでいたことの証として、すべてのことに優先して、まず礼拝を捧げたことに驚きを禁じ得ないのではないでしょうか?

 1年余の厳しい箱船生活を体験し、箱船に難を逃れた僅か8名を除いて文字通り全滅した現実を目の当たりに見て、そして予測される今後の生活の苦難を思うとき、ノアは人間の罪深さ、頼りなさを身にしみて悟ったのではないでしょうか。
主・ヤハウェを畏れかしこみ感謝して、主の護りにしがみつくこと以外、ノアの脳裏に去来するものは無かったのでしょう。厳しい状況になると、私たちはすがるべきお方の姿を見失ったりしますが、ノアたちは主ご自身を「体験的に」知りましたから、偉大な創造主にしがみつく幼子の素直な「信仰」を持てたのでしょう。
身いっぱいに注がれた主の大きな愛を忘れず、感謝して礼拝を捧げることこそが、船を出て真っ先にすべきことだったのです。きよい家畜ときよい鳥から最高のものを選び出して生け贄として主に捧げました。洪水後の生活を一から始めるためには家畜は大切な財産ですが、それも惜しみませんでした。

 神様ではない八百万の神々が満ち満ちている日本で、天地万物をお造りになった唯一の絶対者・創造主を知ることは困難なことです。
日本人は非常に信心深くて、「触らぬ神に祟りなし」「何でも拝んでおこう」という信仰が行き亘っており、「みんなが」手を合わせて拝んでいる対象、例えば過去の英雄・偉人、狐のような動物、街角の地蔵、流れ星のような自然界の現象など様々な偶像に一緒に手を合わせないと、傲慢といわれ、付き合いが悪いとそしられます。

 キリスト・イエスを信じる信仰を与えられた人々は、よもやこのような偶像に手を合わせることはないでしょう。しかし、偶像はこのように形になったものだけではありません。
みだらなこと、貪欲などは偶像崇拝以外の何ものでもないとパウロが指摘しています(エペソ5:5, コロサイ3:5)。この世の諸々に煩わされて、主より大切にしていることが心に巣くっている危険性は大いにあります。
真っ先にすべきことを後回しにして世の価値観に振り回されるのは、偶像礼拝に足を踏み入れているのです。

 大切なこととして祭壇を築き礼拝を捧げた記録は、ノア以外にも旧約聖書に数多くあります(アブラハム(創12:7, 8)、イサク(創26:25)、ヤコブ(創33:20)、モーセ(出24:4)、ヨシュア(ヨシュア22:10)、サウル(Ⅰサムエル14:35)、ダビデ(Ⅱサムエル24:25))。創造主ヤハウェとアブラハムの交わり・礼拝について、アブラハムは「対話のときを恋い焦がれ、声を聞いてひれ伏し、語らいを楽しみ、そして遂に『ヤハウェの心とアブラムの心とが近づき、重なり合った』」と、実際に起こったことと思ってしまいそうなほど生き生きと、中川健一牧師の著書に描かれています。

 恵みの時代の現代、クリスチャンは礼拝を「日曜日に守る礼拝式」(霊魂のありように関係なく)と錯覚していないでしょうか?
礼拝は「守る」ものであるという認識は、聖書に書かれている礼拝とは実態が遠い気がします。規則が大好きな日本人は非常に律法主義的で、規則を「守って」いる状態でないと安心しない国民性を持っているようであり、この心のありようは偶像崇拝に近いと思われます。
旧約時代だけではなく、新約の時代にも、真の信仰者は礼拝を律法的に捉えてはいません。どこまでも主を慕い、敬愛し、畏れ敬って、霊と真をもって礼拝しました(マタイ22:37, 38、ヨハネ4:23、ルカ21:2, 3)。イエス様の弟子たちが最初にイエス様を拝んだのはペテロの水上歩行の後、ボートの中で(マタイ14:33)、二度目は天に帰られるお姿を弟子たちが見て、心の底から自然に礼拝を捧げました(ルカ24:52)。


参考文献:「日本人に贈る聖書ものがたり・族長たちの巻」中川健一著(文芸社)